レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本

レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本 page 22/28

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821828(文ぶん政せい11) 2月25日【1月11日】八重兄・山本覚かく馬ま(1828~1892)、会津藩士・砲術師山本権八・さく(佐久)夫婦の長男として、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁に生まれる。資料により、12日、16日....

821828(文ぶん政せい11) 2月25日【1月11日】八重兄・山本覚かく馬ま(1828~1892)、会津藩士・砲術師山本権八・さく(佐久)夫婦の長男として、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁に生まれる。資料により、12日、16日説もある。権八は、元は永岡繁之助といって、山本家へ婿養子として入った。1836(天てん保ぽう7) ― 山本覚馬9歳、この年、藩校日新館に入り、文武を学びはじめる。覚馬は、5歳で唐詩選の五言絶句を暗唱したという秀才であったという。1843(天保14)2月12日【1月14日】新にい島じま襄じょう(1843~1890)、姉4人(くわ12歳(1832~?)、まき(1834~1879)、みよ(三四吉)(1838~1879)、とき(速水時子)(1840~1905))に続いて、江戸神田一ツ橋の上こうず野けの国くに安中藩江戸屋敷で生まれる。幼名は「七しめ五三太た」。父は民たみ治はる(安中藩祐筆)(1807~1887)、母は登と美み(1807~1896)。1845(弘こう化か2)12月1日【11月3日】山本八や重え(1845~1932)、会津藩士・砲術師山本権八(1808?~1868)・さく(佐久)(1810~1896)夫婦の三女として、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁(現・会津若松市米代2丁目)に生まれる。5人目の子で、次男長女次女は早逝し、17歳年上の兄・覚馬(1828~1892)と、2歳下の弟・三郎(1847~1868)と共に育つ。生家跡の東約50mには、「山本覚馬・新島八重生誕の地碑」が建つ。1847(弘化4) 12月13日【11月15日】七五三太袴着初。1848(弘化4) 1月19日【12月14日】新島襄の弟(双すご六ろく)(1847~1870)、生まれる。1848(弘化5(嘉か永えい1))3月18日【2月14日】新島襄、6歳になった七五三太の「習字初め」の日であり、以後、毎日ほとんど半日を父からの習字の稽古に費やした。父から習字のけいこを受け始める。1848(嘉永1)4月1日【2月28日】嘉永に改元。1849(嘉永2) ― この年、新島七五三太(襄)、母に口ごたえをしたために祖父弁治からお仕置きを受ける。―この年、八重兄山本覚馬(1828~1892)、武田斐あや三さぶ郎ろう(1827~1880)・勝海舟(1823~1899)らと、佐久間象山(1811~1864)の塾に入る。武田斐三郎は、箱館戦争の舞台として知られる日本初の洋式城郭「五ご稜りょう郭かく」を設計・建設する。新島襄(1843~1890)は、後に、斐三郎の武田塾で学ぼうと箱館(函館)に渡る。1850(嘉永3)―この年、外遊びを好む元気な新島七五三太(襄)(8歳)、遊んでいて過って左のこめかみに傷を負う。2ヶ月ほど外出ができず、これより粗暴な戸外遊びを好まなくなり、家でもっぱら読書や習字をしたという。1851(嘉永4) ― この年、山本覚馬、弓馬槍刀の師伝を得、会津藩主より賞を受ける。― この年、新島七五三太(襄)(1843~1890)、山水花鳥(絵)を近隣の画家・江場新太郎に習う。同時に、両親の意図で礼儀作法の塾にも通う。1853(嘉永6) 7月8日【6月3日】米国軍艦、浦賀に来航(ペリー来航)。山本角馬(同志社大学提供) 新島襄(同志社大学提供) 新島八重(同志社大学提供)西暦(和暦)新暦【旧暦】出来事