レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本

レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本 page 20/28

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74日にち露ろ戦せん争そう 八や重えは襄じょうの死後、日本赤十字社の正社員となり、日にっ清しん・日にち露ろの戦争では篤とく志し看かん護ご婦ふとして、それぞれ広島と大阪で傷病兵の治療に当たった。ところで、....

74日にち露ろ戦せん争そう 八や重えは襄じょうの死後、日本赤十字社の正社員となり、日にっ清しん・日にち露ろの戦争では篤とく志し看かん護ご婦ふとして、それぞれ広島と大阪で傷病兵の治療に当たった。ところで、日露戦争の開戦に当たり、京都で要人による重要会議が開かれている。元老・山やま県がた有あり朋ともの別邸、無む鄰りん庵あんが会場となった、いわゆる「無鄰庵会議」である。出席者は、山県のほか、政友会総裁・伊い藤とう博ひろ文ふみ、総理大臣・桂かつら太た郎ろう、外務大臣・小こ村むら寿じゅ太た郎ろうという、そうそうたる顔ぶれであった。 会議の内容は、桂が、朝鮮における日本の利権を守るためには対露戦争も辞さない、というスタンスでロシアとの交渉に当たることについて、山県らの了解を得ようとしたものであった。同志社の出身者で、襄の教え子である徳とく富とみ蘇そ峰ほうは、自著『公爵山縣有朋』の中でそのように記述している。 岡崎公園近くに位置する無鄰庵は、現在京都市の所有となっており、会議の行われた洋館のほか、母屋、茶室、疏そ水すいの水を取り込んだ地ち泉せん回かい遊ゆう式しき庭園(七代目小お川がわ治じ兵へ衛え作)などが一般公開されている。鉄道とチンチン電車 新橋~横浜間に日本で初めて鉄道が走ったのは、明治5 年(1872)のことである。それから5 年後、神戸~京都間が開通し、併せて初代京都駅(七条停車場)が完成した。当初市民からはステーションが訛って、「七条ステンショ」と呼ばれたという。明治22 年(1889)に東海道線が全線開通すると、以後ローカル線の開設ラッシュが起こり、関西では、奈良鉄道(京都~奈良)や京都鉄道(京都~園その部べ)が発足する。ちなみに、京都鉄道を興おこしたのは覚かく馬まの門下生、田た中なか源げん太た郎ろうであった。 また、明治28 年(1895)には、疏水の水力発電を利用した、28 人乗りの小さな市街電車が営業を開始する。当初は七条停車場から伏ふし見み油あぶら掛かけまでの約7 キロの区間であったが、順次市内各方面へと延伸されていった。この電車は発車時にチンチンと鐘を鳴らすことから、チンチン電車という名で市民に親しまれた。一時期事故が多発したため、告知人と呼ばれる少年が電車の前を走り、通行人に「あぶのおまっせー、電車がきまっせー」と大声で危険を知らせる、前代未聞の制度が設けられたこともあった。無鄰庵会議が行われた無鄰庵洋館の応接間(地図P49)蒸気機関車(梅小路蒸気機関車館)(地図P16) 動態保存されたチンチン電車(梅小路公園)(地図P16)