レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本

レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本 page 19/28

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73琵び琶わ湖こ疏そ水すい事業 新にい島じま襄じょうや八や重え、山本覚かく馬まら、新島家、山本家の人々が眠る同どう志し社しゃ墓地は、哲学の道の南側の起点から、熊くま野の若にゃく王おう子じ神社の横を通って....

73琵び琶わ湖こ疏そ水すい事業 新にい島じま襄じょうや八や重え、山本覚かく馬まら、新島家、山本家の人々が眠る同どう志し社しゃ墓地は、哲学の道の南側の起点から、熊くま野の若にゃく王おう子じ神社の横を通って山道を20 分ほど登った所にある。現在、哲学の道に沿って、琵び琶わ湖こ疏そ水すい分線が流れているが、疏水事業(第一疏水)が完成したのは、明治23 年(1890)3 月で、襄が亡くなったのはこの年の1 月のことであった。 ところで、琵琶湖疏水の経路を全て頭に入れている人はどれくらいいるだろう。京都人でも意外に少ないのではなかろうか。琵琶湖(大津市)から山やま科しなを経由して南禅寺辺りまでは誰でも答えられようが、そこから先が問題である。一つは岡崎公園を通り、鴨川と出会った所で南下して伏見へ向かう(鴨川運河)。もう一つは南禅寺から東山の麓を北上し、高たか野の川がわと賀か茂も川がわを順にくぐって堀川にまで達している(疏水分線)。 第一疏水の完成後、鴨川運河、第二疏水と順次整備が進められ、明治末年までには事業のほとんどが完了。お陰で大正以降の京都市民は、電力、上水、水運等の面で、その莫ばく大だいな恩おん恵けいに浴よくしたのだった。内ない国こく勧かん業ぎょう博はく覧らん会かい 明治28 年(1895)、第4 回内ない国こく勧かん業ぎょう博はく覧らん会かいが京都で開催された。当博覧会は平安遷せん都と1100 年を記念して京都に誘ゆう致ちされたものであり、会場として鴨おう東とう・岡崎の地が選ばれた。田んぼと畑の広がる農村地帯に、見る間に工業館、農林館、器械館、水産館、美術館、動物館などのパビリオンが立ち並んだ。そして、会場のシンボルとして建設されたのが、今に残る平安神宮である。数ある社殿は、平安京の大だい内だい裏り朝ちょう堂どう院いんの建物を模して造られた。 博覧会の出品点数は16 万9000 点、入場者数は4 ヶ月で13 万人に達したという。ちなみに、洋画家・黒くろ田だ清せい輝きの裸婦像が展示され、物議を醸かもしたのもこの時である。当時の日本人には、まだ刺激が強すぎたのだろう。また、現在「京都三大祭」の一つに数えられ、平安時代から明治維新までの時代衣装を身に纏まとった人々が京都の街を練り歩く「時じ代だい祭まつり」は、当博覧会の併催行事として行われたのがきっかけで始まったものだ。 博覧会の会場跡は、明治37 年(1904)に岡崎公園となり、前年に京都市動物園が開園したのを皮切りに、京都府立図書館、京都市美術館などが整備された。明治の京都南禅寺境内の琵琶湖疏水水路閣(地図P53)岡崎公園に建つ京都府立図書館(地図P49)