レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本

レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本 page 15/28

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4 1徳とく富とみ蘇そ峰ほう(猪い一いち郎ろう)1863 ~ 1957 肥ひ後ごの国くに(熊本県)の生まれで、開校2 年目に熊本から同どう志し社しゃに入学した30 数名の学生たち(熊本バンドと呼ばれた)の1 人だった。彼....

4 1徳とく富とみ蘇そ峰ほう(猪い一いち郎ろう)1863 ~ 1957 肥ひ後ごの国くに(熊本県)の生まれで、開校2 年目に熊本から同どう志し社しゃに入学した30 数名の学生たち(熊本バンドと呼ばれた)の1 人だった。彼は、八や重えのことを「日本とも西洋ともつかず、いわゆる鵺ぬえのごとき形をしており」と批判している。これは、八重が和服の上に西洋の帽子をかぶり、靴を履いていたスタイルを指してのことであった。 蘇峰は、学生のストライキに責任を感じた襄が、自分の手を杖で打ち続けた、いわゆる「自じ責せきの杖つえ事件」に絡んで卒業前に同志社を去り、上京してジャーナリストになった。のちに、平民主義を提唱する「国民新聞」を創刊している。横よこ井い時とき雄お1857 ~ 1927同志社社長を務めた八重の義甥 肥ひ後ごの国くに(熊本県)の生まれで、父親は熊本藩士で儒じゅ学がく者しゃの横よこ井い小しょう楠なん。小楠は明治新政府の参さん与よとなるが、京都の寺町丸太町下るで暗殺されている。時雄は熊本洋学校から東京の開成学校を経て、同どう志し社しゃに入学。卒業後は愛媛県今いま治ばり市しで布教活動に携わり、新にい島じま襄じょうから按あん手しゅというキリスト教の儀式を授かっている。 覚かく馬まの娘・峰と結婚し、悦子と平馬という一男一女をもうけるが、峰は27 歳の若さで病死した(平馬は男子のなかった山本家の跡取りとなっている)。40 歳で同志社第3 代社長に就任。辞職後は逓てい信しん省しょう官房長や衆議院議員を務めた。大おお澤さわ善ぜん助すけ1854 ~ 1934実業界に身を転じた元任にん侠きょうの徒と 現在の京都府に生まれ、幼名は松まつ之の助すけといった。若くして任にん侠きょうの世界に入るが、23 歳の時に新にい島じま襄じょうと出会い、彼の影響でキリスト教に入信するという異色の経歴を持つ。その後、時計や自転車の輸入・製造・販売を行う大沢商会(現大沢商会グループ)を設立、実業家に転身した。 40 歳を前に京都電燈株式会社の社長、京都電気鉄道の取締役などを歴任する。京都電気鉄道は、京都に日本で初めて市街電車(チンチン電車)を走らせたことで有名な会社。その経験を元に大だい韓かん帝てい国こくの釜プ山サンに渡り、釜山電燈株式会社を設立して、彼かの地の電気供給にも貢献した。八重を鵺ぬえ呼ばわりした熊本バンド員襄が設立した同志社は、外国人宣教師や卒業生の協力を得て発展していった。