レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本

レトロとロマンを訪う 京都 明治・大正地図本 page 14/28

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八重の時代の関連人物40新にい島じま襄じょう1843 ~ 1890キリスト教教育に献身した八や重えの夫 上こう野ずけの国くに安あん中なか藩はんの祐ゆう筆ひう・新島民治の長男として、安中藩板倉家の江戸屋敷で生まれる....

八重の時代の関連人物40新にい島じま襄じょう1843 ~ 1890キリスト教教育に献身した八や重えの夫 上こう野ずけの国くに安あん中なか藩はんの祐ゆう筆ひう・新島民治の長男として、安中藩板倉家の江戸屋敷で生まれる。幼名は七し めた五三太。祖父の弁治が、男の子が生まれたと聞いて「しめた!」と叫んだことから、そう名付けられたといわれる(襄は第5 子であったが、上4 人は全て女子だった)。 元服後、父と同じ祐筆(補助)として出仕するが、ペリー来航による開国論議が彼の冒険心に火を付けたようだ。新天地を求めて函はこ館だてに渡り、アメリカ船ベルリン号に潜り込むことに成功。香港で、ワイルド・ローヴァー号に乗り換え、ボストンへの上陸を果たしたのだった。ちなみに同船のテーラー船長が、襄(ジョー)の名付け親とされる。 ボストンでは、同船の船主・ハーディー夫妻の養子となり、キリスト教の洗礼を受け、フィリップ・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校に学ぶ。アメリカ滞在は10 年に及んだが、その間に日本では徳川幕府が倒れ、明治の世が始まっていた。アメリカン・ボード(宣教師派遣団体)の伝道師として帰国した襄は、日本でキリスト教精神に基づく学校を造ろうとする。そして、それは覚かく馬まや槇まき村むら正まさ直なおと知り合うことで、京都において実現(同志社英学校)されたのだった。宣せん教きょう師したち同志社を支えたアメリカン・ボード 同どう志し社しゃの設立、運営には、何人かのアメリカン・ボードの宣教師が重要な役割を果たしている。八や重えと襄じょうが知り合うきっかけを作ったゴードン(1843 ~ 1900)は、アメリカの医学校を卒業した医療宣教師で、来日当初は大阪の川かわ口ぐち居きょ留りゅう地ちに滞在し、帰国した襄を一時寄き寓ぐうさせている。同志社英学校では、神学や音楽を教えた。 八重がキリスト教の洗礼を受けたデイヴィス(1838 ~ 1910)は、ベロイト大学とシカゴ神学校を卒業し、来日当初は神戸に居住していた。同志社英学校の開校に深く関わり、襄とともに初代の教員を務めた。なお、襄と八重は、御所の東端にあった彼の邸宅(元公卿・柳やなぎ原はら前さき光みつ邸)で結婚式を挙げている。 女子教育にも関心の高かった襄は、同志社英学校の開校後、ほどなくして同志社女学校を創設している。それに合わせ、女性宣教師・スタークウェザー(1849 ~?)がアメリカから招かれた。彼女は八重とともに同女学校の運営に当たるが、やがて2 人はぶつかり合う。その理由は、八重の、身分に対する日本的・封ほう建けん的てきな考え方にスタークウェザーが違和感を覚えたからだといわれる。ゴードンデイヴィススタークウェザー新島襄と同志社関係者