西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 9/22

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49西日本の戦国武将年表帖天正5 10月― この頃東播磨は、黒田官兵衛の説得により大略秀吉に従う。羽柴秀吉が姫路城へ入ると、官兵衛は使者を送って東播磨の豪族や大名を次々と説き伏せ、秀吉は、無傷で東播磨を支配....

49西日本の戦国武将年表帖天正5 10月― この頃東播磨は、黒田官兵衛の説得により大略秀吉に従う。羽柴秀吉が姫路城へ入ると、官兵衛は使者を送って東播磨の豪族や大名を次々と説き伏せ、秀吉は、無傷で東播磨を支配下に置いた。0215―竹中半兵衛御着城主・小寺政まさ職もと(1517~1582)は、秀吉が姫路城へ入っても、挨拶にも来なかった。異常を感知した羽柴秀吉は、官兵衛に「この地を治めるには、貴殿に指図を受けなければならない。2人の間に疑いがあってはならないから、義兄弟の契りを結ぼう」と言い、2人は義兄弟の誓紙を交わしたという。誓紙には、秀吉が黒田家の安泰を約束する意味が有り、官兵衛は誓紙を大切に保管した。その後、竹中半兵衛は、義兄弟の誓紙を交わしたという噂を聞きつけると、官兵衛に「誓紙を見せて欲しい」と頼んだ。半兵衛は、官兵衛の持っていたこの「義兄弟の誓紙」を、官兵衛の目の前で、「奉公の邪魔になる」の一言で破り捨てたと伝える。官兵衛の高慢な態度を諌めた逸話という。021610月28日藤堂高虎「秀吉の中国攻め―第一次但馬平定(10月28日~12月3日)」、はじまる。羽柴長秀(のちの秀長)(1540~1591)は、藤堂高虎(1556~1630)や前野将右衛門長康(1528~1595)率いる軍勢3,200余を従え、播磨より生野の真弓峠から生野街道から北上し但馬国へ攻め込み、岩洲城(山口城)(現・兵庫県朝来市山口字上山)などを攻略しながら突き進んだ。021711月10日「第一次但馬平定戦」。羽柴秀吉(1537~1598)、弟・羽柴長秀(のちの秀長)をして、竹田城(現・兵庫県朝来市和田山町竹田)を落とす。秀長は、大軍で竹田城を取り囲み鉄砲300丁で威嚇し、太田垣土佐守輝延(?~?)を城より退散させた。黒田官兵衛(孝高)、蜂須賀正勝ら、秀長に従う。翌年、秀吉は但馬の竹田城に入城し、弟・秀長を城番とした。021811月―淀殿(茶々)この月、羽柴秀吉、弟羽柴長秀(のちの秀長)に命じ、知善院(現・滋賀県長浜市元浜町)に阿弥陀如来、日光、月光菩産三尊を寄進する。知善院本堂には、阿弥陀三尊像が安置され、その左手には大坂城落城の時に持ち出された、秀吉の木像が安置されている。また淀殿から、次妹お初の夫・京極高次に宛てた自筆の消息(書簡)も保管されている。0219西暦1577現在の姫路城(兵庫県姫路市)c姫路市