西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 8/22

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48 天正5 8月― 上杉討伐の「加賀の陣」に秀吉軍は後備えとして出陣、作戦について大将柴田勝家(1522 ?~1583)と意見が合わず、秀吉は無断で陣を撤し、長浜へ向けて帰陣する。その軍議のとき、竹中重治(半兵衛)....

48 天正5 8月― 上杉討伐の「加賀の陣」に秀吉軍は後備えとして出陣、作戦について大将柴田勝家(1522 ?~1583)と意見が合わず、秀吉は無断で陣を撤し、長浜へ向けて帰陣する。その軍議のとき、竹中重治(半兵衛)(1544~1579)は、すぐに播磨計略にあたるべきことを説き、帰陣を勧めたという。02059月5日羽柴秀吉は、この日帰浜し、信長より謹慎を命ぜられる。秀吉は勝手に帰浜し、信長から厳叱された。02069月6日織田信長朱印状が、黒田官兵衛(孝高)宛に出される。02079月7日蜂須賀正勝羽柴小一郎長秀(のちの羽柴秀長)(1540~1591)、蜂須賀彦右衛門(正勝)(1526~1586)、前野将右衛門長康(坪内光景)(1528~1595)、竹中重治(半兵衛)(1544~1579)らは、秀吉に命じられ、播磨に向かう。02089月22日黒田長政「官兵衛、子・長政を小寺家の人質とする」。羽柴小一郎長秀(のちの羽柴秀長)竹中重治(半兵衛)(1544~1579)ら、播磨から近江長浜に戻り、播磨の情勢を報告。そして、小寺(黒田)官兵衛(1546~1604)の子・松寿丸(のちの黒田長政)(1568~1623)を人質として連れ帰る。そして松寿丸を信長に預けたことを秀吉に報告した。信長は、松寿丸を秀吉に預け近江国長浜に置く。松寿丸の近習として黒田家から井口兵助(村田吉次)(1565~1621)と大野九兵衛も長浜城に送られた。信長は播磨調略の進んだことで秀吉の加賀国無断撤退を許し、謹慎を解く。02099月27日織田信長、美作の毛利方・江見為久が、山中幸盛(鹿介)を頼って織田方に一味することを認める。021010月10日山中幸盛(鹿介)「信貴山城の戦い―10月5日~10日」、終結。織田信長(1534~1582)、織田信忠(1557~1582)を大将に、羽柴秀吉(1537~1598)・明智光秀(1528 ?~1582)・丹羽長秀(1535~1585)・佐久間信盛(1528 ?~1582)らを従軍させ、反旗を翻した松永久秀(1510 ?~1577)・久通(?~1577)父子を大和国信貴山城で自害させる。信忠に従って出陣の山中幸ゆき盛もり(鹿しかの介すけ)(1545~1578)は、松永方の武将・河井将監を組み打ちの末、討ち取る。021110月19日織田信長の命により中国征伐の総大将となった秀吉、播磨経略のため、大軍を率いて近江長浜城を出陣。竹中半兵衛も軍師として従軍。021210月23日「秀吉の中国攻め―天正5年(1577)10月23日~天正10年(1582)6月4日」、はじまる。羽柴秀吉、播磨に向けて京を出陣。中国攻めとは、織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じて行った、毛利輝元の勢力圏である中国地方に対する進攻戦である。021310月―羽柴秀吉小寺政職の家老・黒田官兵衛(1546~1604)は、播磨に着いた秀吉(1537~1598)に、姫路城提供を申し出る。官兵衛は黒田一族を父の隠居城である国こ府う山やま城じょうに移し、自らは二の丸に移った。官兵衛は姫路城(現・姫路市本町)を丁寧に掃除し、明け渡しに目録まで作っており、秀吉は、手際の良さに感心した。竹中半兵衛(重治)(1544~1579)は、この新参者だった官兵衛(如水)に警戒を抱く秀吉に対し、「毒も転じて良薬となる事もある」と言って官兵衛を重く用いる事を勧めたという。その後秀吉は、官兵衛の居城姫路城を修築したうえで入城し、播磨および但馬の攻略を進める。0214西暦1577