西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 4/22

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20 西暦1545天文14 4月―斉藤道三竹中半兵衛父・重元(1499~1562)、大御堂より兵を率いて美濃国不破郡岩手城(現・岐阜県不破郡垂井町岩手)の岩手弾正信久を攻め、岩手領を押領する。異説、永禄1年(1558)とも。....

20 西暦1545天文14 4月―斉藤道三竹中半兵衛父・重元(1499~1562)、大御堂より兵を率いて美濃国不破郡岩手城(現・岐阜県不破郡垂井町岩手)の岩手弾正信久を攻め、岩手領を押領する。異説、永禄1年(1558)とも。岩手弾正は、稲葉良よし通みち(一鉄)の妹婿で、斉藤道どう三さんは姉婿にあたる。0008― 官兵衛父・黒田満隆(のちの小寺職隆)(1524~1585)、御着城主・小寺則のり職もとの養女を娶って家老に列せられると共に、小寺の姓氏を与えられ、播磨の姫路城(現・兵庫県姫路市本町)の城代になるという。則職の養女は、枝えだ吉よし城(明石城)主・明石宗和(正風)の娘で、黒田官兵衛の母となる。御着城は、現・兵庫県姫路市御国野町御着。0009― この年、御着城主・小寺則のり職もと(1495~1576)は、家督を嫡男政まさ職もと(1517~1582)に譲って引退したという。0010西暦1546天文15 11月29日黒田官兵衛(孝高/如水)「官兵衛、誕生」。黒田(小寺)官兵衛(孝高)(後の如水)(1546~1604)、御ご着ちゃく城じょう主・小寺政まさ職もと(1517~1582)の姫路城代小寺職もと隆たか(23歳)(1524~1585)の嫡男として播磨国飾東郡姫路で生まれる。「黒田家譜」。幼名は万吉で、幼少期は元気で活発、外でチャンバラやらで暴れ回るやんちゃな遊びに興じていたが、7歳の時からは浄土宗の僧侶・円えん満まんに読み書きを教わるようになる。母・岩(1531~1559)は、枝吉城(明石城)(現・兵庫県神戸市西区枝吉4丁目)主・明石正風(宗和)の娘で、前御着城主・小寺則のり職もと(1495~1576)の養女。正まさ風かぜは、関白・近衛稙たね家いえ(1502~1566)に歌道を授けるほど和歌の道を心得た人とされ、明石に一庵をむすび、別号を宗和、または隠月翁と称した。その娘である官兵衛の母も和歌の道に通じ、その影響で官兵衛自身も10代で和歌に親しみ、晩年は連歌に深く関わったという。また、黒田家は当主から小寺姓を賜っていたので、小寺家滅亡まで官兵衛は、小寺を名乗ったという。0011御着城跡(兵庫県姫路市御国野町御着)