西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 19/22

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173西日本の戦国武将年表帖慶長5 10月16日立花宗茂(統虎)鍋島勝茂軍の成なり富どみ茂しげ安やす(1560~1634)、柳川城主である立花統虎(宗茂)(1567~1643)に対し決戦の果し合いを申し込む。鍋島直茂に命じら....

173西日本の戦国武将年表帖慶長5 10月16日立花宗茂(統虎)鍋島勝茂軍の成なり富どみ茂しげ安やす(1560~1634)、柳川城主である立花統虎(宗茂)(1567~1643)に対し決戦の果し合いを申し込む。鍋島直茂に命じられて立花軍を柳川城から戦場へと引っ張り出すための口上を述べ、宗茂に降伏を勧めるために折衝役を務めたという。成富茂安に対し、黒田如水(官兵衛)(1546~1604)は肥後一揆(1589年)で非凡の武士と見て他に例がないと褒め称え、加藤清正(1562~1611)は人柄、武勇、築城、治水の功を褒め、一万石で招こうとした。115610月17日久留米城を黒田如水(官兵衛)に任せた、鍋島直茂軍、柳川入りして大善寺(現・福岡県久留米市筑邦町)で、鍋島勝茂軍と合流。115710月17日加藤清正、家臣の吉村左近をして、小西行長領・麦島城(現・熊本県八代市古城町)を接収。115810月17日加藤清正(肥後隈本城主)(1562~1611)は、立花統虎(宗茂)(筑後柳川城主)を弁護する書状を徳川家康に送り、その旨を宗茂に告げ、降伏を勧める。115910月18日久留米の黒田如水(官兵衛)(1546~1604)、狼藉・放火・伐採等の禁制を発布する。116010月18日日向国飫肥城の伊東家家老・稲津重政(宮崎郡清武城城代)(1574~1602)、島津氏の日向佐土原城(現・宮崎市佐土原町上田島)に迫る。清武城は、現・宮崎市清武町にあった。116110月19日細川藤孝(幽斎)細川幽斎(1534~1610)、大坂城で徳川家康(1543~1616)に謁見。116210月19日筑後柳川城の近く水みず田た(現・福岡県筑後市)に布陣した黒田如水(官兵衛)(1546~1604)、伊東祐すけ慶のり(飫お肥び藩主伊東家2代)(1589~1636)へ書状を送り、宮崎城占領を賞賛し、柳川を下ろしたら薩摩へ向かう由を告げる。1163西暦1600久留米城跡(福岡県久留米市)