西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 18/22

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172 慶長5 10月15日徳川家康「家康、関ヶ原における客将の論功行賞を発表」。西軍諸大名八十七家の所領を没収し、それらは東軍諸将に恩賞として宛行われ、或いは徳川氏の直轄領に組み入れられる。これにより、中央を....

172 慶長5 10月15日徳川家康「家康、関ヶ原における客将の論功行賞を発表」。西軍諸大名八十七家の所領を没収し、それらは東軍諸将に恩賞として宛行われ、或いは徳川氏の直轄領に組み入れられる。これにより、中央を徳川譜代で固める一方、東軍に加わった豊家家臣は、九州・四国・中国・奥羽といった中央から離れた地に転封し、初めて徳川家による中央支配の意図を明らかにする。115010月15日黒田長政徳川家康(1543~1616)は、浅野幸長(1576~1613)の軍功を賞し13万石を加増して、甲斐府中から紀伊和歌山37万6千石を与え、尾張清須24万石の福島正則(1561~1624)を安芸・備後49万石に転封、代わりに四男の松平忠吉(1580~1607)を、武蔵国忍城10万石から尾張国清須52万石城主に任命する。また三河吉田城15万2千石の池田輝政(1565~1613)には、播磨・備前・淡路3国52万石を与え姫路城主とし、豊前中津18万石の黒田長政(1568~1623)には筑前1国52万石を与え、加藤清正(1562~1611)には肥後19万石から52万石に加増、加藤嘉明(1563~1631)は、伊予国松ま前さき(現・愛媛県伊予郡松前町)にさらに10万石を加増して20万石を与える。1151―小早川秀秋この頃、筑前名島(現:福岡県福岡市東区名島)36万石の小早川秀秋(1582~1602)は、「関ヶ原の戦い」後の論功行賞では、宇喜多秀家(1572~1655)の旧領備前国と美作国、52万石を拝領し、岡山城を居城にする。戦後まもなく、秀秋から「秀詮」へと改名している。115210月15日「久留米城攻め」。立花統虎(宗茂)の柳川城を攻める鍋島直茂、本陣を城島へ移す。115310月16日黒田官兵衛(孝高/如水)「久留米城開城」。西軍の毛利秀ひで包かね(小早川秀包、元就九男)(1567~1601)領の久留米城は、鍋島直茂軍に合流した黒田如水により開城・接収される。18日ともいう。毛利秀包は立花宗茂とともに大津城攻めに参加していたが、九州に戻った宗茂とは別れ大坂に残る。久留米城中には桂広繁(?~?)と白井洞竹入道景俊(1537~?)以下500の兵しか残っていなかった。城はしばらくは持ちこたえたが、両人は開城勧告に応じて城を明け渡した。東軍勝利の報が届いたという。秀包の正室桂姫(大友宗麟の七女)と嫡男毛利元もと鎮しげ(1591~1672)は黒田家の人質に、桂広繁の四男黒寿丸は鍋島家の人質とされた。キリシタン大名であった毛利秀包は毛利元就の九男(末子)で、黒田官兵衛(孝高)(1546~1604)の影響を受け、キリシタンとなり、孝高と同じ洗礼名「シメオン」の名を受けた。黒田家臣・黒田直之(如水の異母弟)(1564~1609)が、久留米城(現・福岡県久留米市篠山町)を預かる。115410月16日鍋島勝茂鍋島勝茂軍、筑後川を渡河して接近し、柳川の支城である城島城(現・福岡県久留米市城島町城島(城島小学校))を落とす。城島城主・薦こも野の成しげ家いえ(薦野増時の嫡男)(1568 ?~1620)は、立花宗茂と共に大津攻めに参加し、帰国後は柳川城に入ったので梅津城は殆ど空であった。1155西暦1600