西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 17/22

電子ブックを開く

このページは 西日本の戦国年表帖 の電子ブックに掲載されている17ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
127西日本の戦国武将年表帖天正15 10月― 「上毛一揆―天正15年(1587)9月~天正16年(1588)1月」。宇都宮鎮房が城井郷城に立て籠ると、黒田勢の背後を狙い、山内城主・如法寺久信(如法寺孫治郎輝則)、下川底城....

127西日本の戦国武将年表帖天正15 10月― 「上毛一揆―天正15年(1587)9月~天正16年(1588)1月」。宇都宮鎮房が城井郷城に立て籠ると、黒田勢の背後を狙い、山内城主・如法寺久信(如法寺孫治郎輝則)、下川底城主・城井弥七朗信次、鬼木城主・鬼おに木き掃かい部もんの助すけ宗むね正まさ、山田城主・山田大膳輝家、八屋城主・八屋刑部、東友枝叶松城主・内尾主水兼元、西友枝雁股城主・友枝大膳、緒方城主・緒方維これ綱つな、高田城主・有吉内記らの国人衆も手勢を率いて出陣。黒田軍は日熊城(日隈城)に押さえの隊を置き、残る1,000余の軍勢で国人連合軍と観音原(上毛郡友枝)で戦い、黒田長政勢は鬼木掃部助を討ち、上毛一揆連合軍は敗れ、それぞれの居城に逃げ帰る。下しも川かわ底そこ城じょうは現・福岡県豊前市大字下川底(貴船神社)、鬼おにの木き城じょうは現・豊前市大字鬼木、山田城は現・豊前市大字川内字櫛狩谷、八屋城は現・豊前市八屋宝福寺山、叶かのう松まつ城じょうは現・福岡県築上郡上毛町大字東下、雁股城は現・築上郡上毛町大字西友枝、緒方城は現・築上郡上毛町大字緒方。080610月9日後藤又兵衛「「城井の乱―岩丸山合戦」。黒岩山合戦、峯合戦ともいわれる。黒田軍、城井谷を攻める。毛利輝元は部将・勝間田重晴を派遣したほか、吉川広家、毛利勝信も兵を率いて援軍にかけつけた。黒田長政(1568~1623)は援軍と共に城井谷へ攻め込んだが、狭い山道で奇襲を受け苦戦、勝間田彦六左衛門重晴は戦死。黒田勢はこのまま小山田谷に下りて小山田川に沿って退却。その後、黒田側は攻め方を変え、城井谷には付け城を築いて包囲しておき、他の豊前国人を攻めくだして、鎮房を孤立させた。そして、和議を結ぶことになる。この戦いで敗戦撤退の黒田長政は、馬ごと深田にはまり込んだ。鞭むちを打てども馬は身動きできない。後藤又兵衛(1560~1615)、小河伝右衛門(1554~1592)、久野四兵衛(1545~1592)たちが必死に長政を助け、馬に乗せてわずか8騎に守られて退いたという。黒田一かず成しげ(黒田八虎の一人)(1571~1656)は、その際、黒田長政の影武者となることを志願したという。官兵衛の牢獄の看守であった荒木村重の家臣・加藤重徳(伊丹加藤又左衛門)は、監視をしているうちに黒田官兵衛の智才を慕うようになり、せめて生命だけは途絶えないようにと、自らへの処分も恐れずに黒田家家臣にも協力して世話をしたとされ、後に黒田家に招き、その子で二男・加藤氏親は、黒田家に仕え400石にて、黒田三左衛門と名乗り、黒田長政の長男・黒田忠之(1602~1654)の子守役を勤めた。これが黒田官兵衛の養子となった黒田一成だ。0807西暦1587右/北野天満宮(京都市上京区)中/太閤井戸左/北野大茶湯之址碑