西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 16/22

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126 天正15 9月8日鍋島直茂豊臣秀吉(1540~1591)、鍋島直茂(龍造寺氏重臣で、政家の義理の叔父)(1538~1618)へ、「肥後国一揆」発生に際して筑前・筑後両国の軍勢を率いた小早川秀包(1567~1601)・龍造寺政....

126 天正15 9月8日鍋島直茂豊臣秀吉(1540~1591)、鍋島直茂(龍造寺氏重臣で、政家の義理の叔父)(1538~1618)へ、「肥後国一揆」発生に際して筑前・筑後両国の軍勢を率いた小早川秀包(1567~1601)・龍造寺政家(1556~1607)と相談し隈本(熊本)の佐々成政と共に一揆勢を成敗するよう命令。鎮圧不可能な場合は黒田孝高(官兵衛)・毛利吉成(勝信)(?~1611)を加え、それでも困難な場合は毛利輝元・小早川隆景の出陣を指示。07979月下旬「肥後国人一揆」。立花統むね虎とら(後の宗茂)、一揆討伐のため肥後に入る。07989月―黒田長政「上毛一揆―天正15年(1587)9月~天正16年(1588)1月」、蜂起。留守を守る黒田長政(1568~1623)の拠る馬ヶ岳城へ、豊前各地で国人衆が蜂起したという知らせが入る。長政は久留米に向かう黒田孝高(官兵衛)へこれを告げた。筑後の黒田孝高(官兵衛)は後のことは小早川隆景に託して3,000の手勢で馬ヶ岳城(現・福岡県行橋市津積馬ヶ岳)に引き返す。官兵衛は秀吉に窮状を一報、次いで安芸の毛利輝元(1553~1625)に援軍を要請した。079910月1日「上毛一揆」。秀吉の九州征伐軍の豊前における先陣を受け持ち本領安堵された、長岩城(現・大分県中津市耶馬溪町)の野中鎮しげ兼かね(?~1588)の呼びかけで、先ず、上毛の日熊城(日ひの隈くま城じょう)(現・福岡県築上郡上毛町大ノ瀬)の日熊直次、宇佐の高たけ家い城じょう(中島城)(現・大分県宇佐市東高家字堀添)の中島房直(統次)が挙兵した。のちに統次は、黒田父子の援軍を得た時とき枝えだ鎮しげ継つぐにより、攻め滅ぼされる。080010月1日「上毛一揆」。黒田孝高(官兵衛)の出陣をみた上毛郡の豊前山内城(現・福岡県豊前市山内)の如ね法ほう寺じ輝てる則のり、高田城(現・豊前市高田)の有吉内記らが一揆の狼煙をあげる。080110月1日「上毛一揆」。黒田長政、上毛郡へ出動するため、兵を集める。午後10時、出陣。080210月1日千利休今井宗久「北野大茶湯」。豊臣秀吉、京都北野において大茶会を開催。秀吉は九州を平定し実質的に天下統一を果たした祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会「北野大茶湯」を北野天満宮で開催する。黄金茶室、秀吉自慢の茶道具なども展覧された。千利休(1522~1591)、津田宗及(?~1591)、今井宗久(1520~1593)と共に秀吉の御茶事四席の茶頭としてこの茶会の演出に関わる。境内には800ヶ所に及ぶ茶点て所が設けられたといわれており、当時の茶の湯の流行に大きな影響を与えた。080310月2日「上毛一揆」。黒田長政は2日早朝、早くから黒田に降りていた広津鎮種の広津城(現・福岡県築上郡吉富町広津)へ向かう。080410月2日「城井の乱―天正15年(1587)10月2日~天正16年(1588)4月24日」、はじまる。豊前国の土豪・城き井い(宇都宮)鎮しげ房ふさ(1536~1588)はついに決断、黒田長政が上毛郡の一揆を鎮圧している隙を突き、毛利勝信から借りていた田河郡赤郷柿原を出発し、黒田の部将・大村助右衛門が守る、旧領土・城井谷にある大平城(城井谷城)(現・福岡県築上郡築上町大字寒田)を攻め奪回する。と、城井谷の領民が旧領主・城井鎮房に味方し、鎮房は城井郷城と城井谷の領土を取り戻すことに成功した。鎮房は城き井いの郷こ城じょう(現・福岡県築上郡築上町寒田)に立て籠る。0805西暦1587