西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 15/22

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79西日本の戦国武将年表帖天正8 9月21日吉川元春織田氏に降伏に反対の山名家臣森下道誉・中村春続が毛利氏に通じ、織田氏に降伏しようとした主君山名豊国を鳥取城から追放する。山名豊国は身一つで城を落ち延びて羽....

79西日本の戦国武将年表帖天正8 9月21日吉川元春織田氏に降伏に反対の山名家臣森下道誉・中村春続が毛利氏に通じ、織田氏に降伏しようとした主君山名豊国を鳥取城から追放する。山名豊国は身一つで城を落ち延びて羽柴秀吉を頼る。森下らは、毛利方の山陰方面の中心人物となっていた吉川元春に急使を送ってこの旨を知らせた。元春ははじめ豊国にかわる城将として何人か送ったが、翌年には、吉川経家を新城主として迎えることとなる。043910月2日立花宗茂高橋家重臣で支城・龍ヶ城(現・福岡県筑紫野市吉木)を任されていた北原能登守鎮しげ久ひさは、大友氏一辺倒の高橋入道紹じょう運うん(立花宗茂の実父)(1548~1586)を臨機応変の対応出来ないと、秋月種たね実ざね(1548 ?~1596)に通じ、紹運追放を企てるも紹運の知るところとなり岩屋城(現・福岡県太宰府市浦城)で謀られ、この日誅される。鎮久の誅罰は、紹運にとって何かと重しになっていた家中の批判勢力を抑え、大友氏支持への忠義と信念のもとに家中の結束を強化する転機となった。044010月6日「田原親貫の乱」。攻勢の大友軍、反乱を起こした田原親貫の安岐城(現・大分県国東市安岐町下原字古城)を開城させ、鞍くら懸かけ城じょう(現・大分県豊後高田市佐野)の孤立化に成功する。親貫は秋月氏を始め豊前の有力武将に救援を願う。大友軍は田原親ちか賢かた・佐田鎮しげ興おきらをもってこれを掃討。頼みの綱だった筑前の秋月種たね実ざね(1548 ?~1596)は救援を諦め、本拠へ帰って行き、田原親貫はついに万策尽きる。044110月11日「田原親貫の乱―天正7年12月~天正8年10月11日」、終結。鞍懸城も9日、ついに陥落。田原親貫(?~1580)は、逃亡の途中に宇佐郡の時とき枝えだ氏によって討死とも自刃ともいう。大友親ちか家いえ(宗麟の次男)(1561~1641)は、田原親貫に代わり田原氏の家督を継承し、以後は田原親家と称す。044210月18日高橋紹運「蘆城襲撃」・「休山茄子城合戦」。高橋紹運と、父鎮久を誅された北原進士兵衛種興は、秋月の将・内田善兵衛彦五郎を使い「父の敵を討つ」と、秋月種実に策略しかけ、これにだまされた内田彦五郎率いる秋月勢、300あまりで岩屋城に向けて出陣する。夜となったので一隊は、蘆城の龍ヶ城に陣を張る。これに進士兵衛は酒を振舞い、秋月勢の寝入った所を高橋勢が襲い、秋月軍は惨事となる。この敗戦に、筑前の秋月種たね実ざね(1548 ?~1596)は、弔い合戦とばかり12,000もの軍勢を「休やすみ山やま茄な子す城じょう」(安見ヶ城)(現・福岡県朝倉市安見ヶ城山)に繰り出し、豊満山、岩屋を覗う。戸次(立花)入道道雪、高橋紹運の両将も休山茄子城に陣を進め、両軍相乱れて戦う。しかし、紹運の知略に綿貫佐三兵衛らが奮戦、秋月勢は崩れ古処山へ退く。0443西暦1580篠の丸城址碑(兵庫県宍粟市山崎町加生)