西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 14/22

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78 天正8 7月中旬「田原親貫の乱―三ヶ月の籠城戦はじまる」。大友軍、この月、田原親貫が籠る安岐城(現・大分県国東市安岐町下原字古城)への攻撃を開始。大友親家軍が城を攻めるも激しい抵抗を受け、攻略は難航す....

78 天正8 7月中旬「田原親貫の乱―三ヶ月の籠城戦はじまる」。大友軍、この月、田原親貫が籠る安岐城(現・大分県国東市安岐町下原字古城)への攻撃を開始。大友親家軍が城を攻めるも激しい抵抗を受け、攻略は難航する。また、安岐城には海路での補給が行われており、これを封じるために翌8月、大友宗麟は、伊予国の村上水軍に救援を求めた。04307月― 戸次(立花)入道道雪(1513 ?~1585)、この月、龍造寺隆信(1529~1584)と和睦。筑前国15郡の西9郡は龍造寺領、東6郡は大友領となる。04318月2日准じゅ三さん后ごう・近衛前さき久ひさ(1536~1612)、摂津国大坂の石山本願寺を接収する。しかし石山本願寺は悉く焼亡する。04328月10日「田原親貫の乱」。田原親貫が籠る安岐浦に毛利水軍がこの日、救援に駆け付けたが、豊後水軍が一蹴。10日後の8月20日にも数十艘の毛利水軍が現れたが、ここでも、田原氏の所領であった国くに東さき半島を封鎖する、若林鎮しげ興おき(1547~1593)率いる海あま部べ水軍が撃退した。04338月12日島津義久織田信長(1534~1582)、初めて音信を通ず島津義久(1533~1611)へ、大友義統(後の吉統)(1558~1610)と「鉾楯」に及んでいることは不当であり「和合」することがもっともであること、また信長の勢力圏では石山本願寺を「緩怠」を理由に「誅罸」し、石山本願寺側からの懇望により「赦免」して大坂「退散」が実現、本願寺顕如光佐らは紀伊国雑賀へ退去したことで「幾内無残所属静謐」したこと、来年は安芸国へ信長が「出馬」する予定であるので、その際には奔走し「天下」に対して大忠をなすことを促す。詳細は近衛前久より伝達させる。04348月21日「第一次鳥取城攻め―天正8年6月~8月21日」、終結。山名豊国(1548~1626)の鳥取城がこの日、降伏。秀吉は「降伏すれば、因幡一国を与える」と申し入れたが、山名豊国からの降伏の返事が遅かったという理由で、豊国には法ほう美み・邑おう美みの2郡しか与えられなかった。人質であった豊国の娘・あかね(南の局)は、このとき秀吉の妾となるという。ところが豊国の家臣、森下出羽守道誉(?~1581)・中村対馬守春続(?~1581)らは、なお降らず、毛利勢来鳥の報に秀吉は兵を帰して姫路に帰る。04358月― 羽柴秀吉、播磨8城の破城令を下す。04369月1日黒田官兵衛(孝高/如水)「官兵衛、大名となる」。黒田官兵衛(孝高)(1546~1604)、播磨国揖いっ東とう郡ぐん内に1万石を与えられ、宍粟郡山崎篠の丸城(現・兵庫県宍粟市山崎町加生)を居城とする。官兵衛、初めて大名の列に入る。この頃、軍旗・馬印・家紋などを制定する。04379月13日大友宗麟織田信長(1534~1582)、義統父・大友宗麟(義鎮)(1530~1587)へ、芸州出馬のため大友氏・島津氏の和睦を勧告。「私之以遺恨」て異儀に及ぶ場合は、「敵」と見なすことを通達。0438西暦1580