西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 13/22

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65西日本の戦国武将年表帖天正6 11月9日島津家久「第二次日向出兵」。大友軍先鋒、名貫川(現・宮崎県児湯郡都農町)に布陣していた島津家久勢を破る。大友勢は進んで山田有信(島津氏家臣)(1544~1609)の守る高....

65西日本の戦国武将年表帖天正6 11月9日島津家久「第二次日向出兵」。大友軍先鋒、名貫川(現・宮崎県児湯郡都農町)に布陣していた島津家久勢を破る。大友勢は進んで山田有信(島津氏家臣)(1544~1609)の守る高たか城じょう城(現・宮崎県児湯郡木城町)を包囲し、兵糧攻めを開始。両軍は小お丸まる川がわを境に対峙することとなった。032411月9日島津義弘「第二次日向出兵」。大友陣に伏兵(野伏)を仕掛けるために、島津忠平(義珍、義弘)(1535~1619)、島津征ゆき久ひさ(以もち久ひさ)(1550~1610)、伊集院忠棟(?~1599)、上うわ井い覚さと兼かね(1545~1589)らは財たから部べ城じょう(のちの高鍋城)(現・宮崎県児湯郡高鍋町)に移動。032511月9日「高城川原の戦い(耳川の戦い)―11月9日~12日」。島津忠平(義珍、義弘)、島津征久が別働隊を率いて出陣。小丸川の南の台地上に陣取る。032611月10日滝川一益「有岡城の戦い―天正6年(1578)10月21日~天正7年(1579)11月19日)」。織田信長、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らを摂津国茨木へ、織田信忠・北畠信意(織田信雄)・織田信包・織田信孝・前田利家・金森長近らを摂津国高槻へ派遣。また宣教師オルガンティーノ(1533~1609)に佐久間信盛・羽柴秀吉・松井友閑らを同行させ、荒木村重派の高山重友(右近)(摂津国高槻城主)(1552~1615)を勧誘させる。032711月10日高山右近「有岡城の戦い―高槻城開城」。織田信長(1534~1582)、安満(現・大阪府高槻市)に布陣。高山右近はオルガンティーノの説得に従い、剃髪、一人だけ降る。高槻城は、現・大阪府高槻市城内町(城址公園)。032811月10日「高城川原の戦い(耳川の戦い)」。この日の合戦では、島津軍は財部城に引いた。032911月11日「高城川原の戦い(耳川の戦い)」。島津軍、ゲリラ戦・伏兵配置などで大友方の陣地「松山之陣」を焼き討ちにする。033011月12日島津義久大友宗麟「高城川原の戦い(耳川の戦い)―11月9日~12日」、決着。西の関ヶ原の戦いといわれる戦いで、島津軍が大友軍を破る。島津軍の本隊(島津義久隊)、根白坂上(陣之内)に到着。九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟(義鎮)(1530~1587)と薩摩国の島津義久(1533~1611)が、日向高城川原(現・宮崎県児湯郡木城町)を主戦場として激突。両軍が木城町下鶴付近で合戦に及び、緒戦で島津方の北郷久盛(?~1578)が討死。戦況が拮抗しているところを老瀬坂上の陳から島津以久が東から突入。高城の篭城兵も西から突入したため戦況が決定的になる。大友軍大敗し、陸路、豊後へ向けて敗走。島津軍が追撃戦を展開。追い詰められた大友方は、数日来の大雨のため増水した耳川で多数の将兵が水死した。大友方・吉弘鎮しげ信のぶ(高橋紹運の兄)(?~1578)、戦死、家督は子の統幸(?~1600)が継いだ。妙見嶽城に逃げ戻った総指揮の田原紹じょう忍にん(親賢)(?~1600)は、敗戦の責を追及され、勢力の巻き返しを図る田原本家の田原親ちか宏ひろ(?~1579)の主張で親宏から奪っていた所領を没収される。この敗戦を機に、筑前・筑後での大友離れが顕著となる。0331西暦1578