西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 12/22

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64 天正6 11月3日「有岡城の戦い(天正6年(1578)10月21日~天正7年(1579)11月19日)―黒田官兵衛、幽閉される」。織田勢は、荒木村重を慰諭するが、村重は頑として応ぜず。使者として有岡城に赴いた黒田官兵衛(....

64 天正6 11月3日「有岡城の戦い(天正6年(1578)10月21日~天正7年(1579)11月19日)―黒田官兵衛、幽閉される」。織田勢は、荒木村重を慰諭するが、村重は頑として応ぜず。使者として有岡城に赴いた黒田官兵衛(孝高)(1546~1604)が監禁され土牢に閉じ込められる。伊丹有岡城が織田軍により陥落する翌天正7年10月(1579)までの1年間、有岡城に幽閉されることとなる。小寺政まさ職もとが、荒木村重に呼応しようとした為に取った処置と考えられている。031611月―竹中半兵衛黒田長政「有岡城の戦い」。織田信長(1534~1582)は松寿丸(黒田長政)(1568~1623)の殺害を命ずるが、竹中半兵衛(重治)(1544~1579)は秀吉に偽の首を進呈させ、密かに美濃の居城・菩提山城(岩手山城)(現・岐阜県不破郡垂井町岩手)下に匿う。信長は官兵衛が戻ってこないのを謀反だと疑い、人質として預かっていた官兵衛の嫡男黒田長政を殺すよう、羽柴秀吉に命じた。この後、監禁から助け出された官兵衛(孝高)は、このことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。さらに、半兵衛の子・竹中重しげ門かど(1573~1631)が元服した際には、黒田官兵衛(孝高)(1546~1604)が烏え帽ぼ子し親おやを務めたという。031711月―明智光秀「有岡城の戦い」。この月、荒木村重の嫡男新五郎(村次)に嫁していた明智光秀の娘・倫子(ガラシャの姉)が離別され、光秀(1528 ?~1582)の許に帰る。後年、光秀家臣・三宅弥平次(明智秀満)(1536 ?~1582)に再嫁する。031811月― 「有岡城の戦い」。この月、荒木村重の応援のため、雑さい賀か衆・鈴木重秀(雑賀孫市)(1534 ?~1589)が摂津有岡城に入る。031911月5日幸圓(光姫)「有岡城の戦い」。黒田官兵衛と松寿丸が、受難の時、黒田家臣は連署起請文を捧げ、黒田家に忠節を誓う。母里太兵衛友信(1556~1615)他11名より御本丸(孝高夫人櫛橋氏)宛である。連署起請文は、さらに続く。御本丸は、光てる(幸圓)(1553~1627)である。032011月6日「第三次石山合戦―第二次木津川口海戦」。辰刻から午刻までの長きにわたる船戦が、木津川口南方の海上で繰り広げられる。始めは織田方九鬼水軍が不利とみられたが、毛利の大将のものと思われる船を大砲で砲撃すると、毛利水軍は大船を恐れて近づくことができず、木津沖へ追い返すことに成功。信長、石山本願寺の孤立化に成功。032111月7日「有岡城の戦い」。黒田家臣小河俊他11名連署血判起請文が、この日付で、小川与三左衛門尉宛に出される。032211月9日「有岡城の戦い」。織田信長、京都から摂津国へ向けて出陣し、山城国山崎に布陣。0323西暦1578