西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 11/22

電子ブックを開く

このページは 西日本の戦国年表帖 の電子ブックに掲載されている11ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
59西日本の戦国武将年表帖天正6 4月23日吉川元春(1530~1586)、加賀門徒に戦勝を報じ、上杉謙信(1530~1578)と和睦して信長(1534~1582)に抵抗するよう要請する。謙信は3月に没している。02705月6日織田信忠信....

59西日本の戦国武将年表帖天正6 4月23日吉川元春(1530~1586)、加賀門徒に戦勝を報じ、上杉謙信(1530~1578)と和睦して信長(1534~1582)に抵抗するよう要請する。謙信は3月に没している。02705月6日織田信忠信長は、毛利軍の圧力が増すこの事態を憂慮し、本願寺攻めに向かわせていた嫡子織田信忠以下、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・荒木村重らを播磨方面に転戦させ、総勢3万の兵が、この日に播磨明石に上陸。02715月24日竹中半兵衛(重治)(1544~1579)は上洛して信長に、備前八幡山城(現・岡山県赤磐市仁堀東)城主が味方したことを報告した。信長(1534~1582)は、これを賞して羽柴秀吉(1540~1591)に黄金百枚を送り、重治に銀子百両を与えた。02726月16日「三木合戦――天正6年3月29日~天正8年1月17日」。羽柴秀吉、織田信長の指示を仰ぐため密かに播磨から上京し、上月城の尼子氏を見捨て三木城攻略に全力を注ぐよう命令を受ける。「謀略武略もなしに長陣していても詮はなし。まずは陣を払い、軍勢を神吉・志方へ寄せて攻め破り、その上で別所が籠る三木の城を囲むべし」と。上月城は見殺しとなる。秀吉は尼子勝久(1553~1578)に開城を勧めるが、勝久はこれを拒否して籠城を続けた。尼子家再興を悲願としている勝久・鹿介主従であった。秀吉の尼子勝久説得は、毛利軍包囲の上月城に使者が入り込む隙があったとは考えにくく、この挿話は創作ともいわれる。02736月26日「第二次上月城の戦い―秀吉、上月城を見捨てる」。羽柴秀吉・荒木村重ら、上月城(現・兵庫県佐用郡佐用町)攻めの本陣・高倉山を撤収し書写山に移り、三木城(現・兵庫県三木市上の丸町)攻撃のために平井山(三木城の北東約2km)に移陣。02746月27日細川藤孝(幽斎)「三木合戦―神吉城の戦い(6月27日~7月20日)」、はじまる。援軍の織田信忠の軍勢が、別所方の神かん吉き城じょう(現・兵庫県加古川市東神吉町神吉(常楽寺))を取り囲む。城北から城東の山へかけて信忠・織田信孝・林秀貞・長岡(細川)藤孝・佐久間信盛らが前後左右に段を連ねて布陣した。02756月27日織田信忠・羽柴秀吉ら、別所長治の属城・神吉城を攻めるも敗退。02766月29日織田信長(1534~1582)、兵庫・明石・高砂の間に水軍警固の砦を築くことを命じ、津田信澄と万見仙千代(重元)が派遣された。02777月3日「第二次上月城の戦い―4月18日~7月3日」、終結。孤立無援の城となった上月城の尼子主従は抗戦を諦め、城兵の助命を条件に尼子勝久(1553~1578)・尼子氏久・尼子通みち久ひさ・家臣神じん西ざい元もと通みち、そして勝久の嫡男である尼子豊若丸らは自刃、開城することとなったとされる。元通の神じん西ざい城じょうは、現・島根県出雲市東神西町。02787月5日「上月城開城―尼子氏は滅亡」。小早川隆景・吉川元春ら毛利軍により、織田方の播磨国上月城(現・兵庫県佐用郡佐用町)開城。0279西暦1578