西日本の戦国年表帖

西日本の戦国年表帖 page 10/22

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58 天正6 4月3日「三木合戦」。織田信忠(1557~1582)、羽柴秀吉、長井政重(?~1578)の拠る播磨国野口城(現・兵庫県加古川市野口町)(別所長治の属城)を攻めて、6日に攻略。02634月4日黒田官兵衛(孝高/如水....

58 天正6 4月3日「三木合戦」。織田信忠(1557~1582)、羽柴秀吉、長井政重(?~1578)の拠る播磨国野口城(現・兵庫県加古川市野口町)(別所長治の属城)を攻めて、6日に攻略。02634月4日黒田官兵衛(孝高/如水)織田信長(1534~1582)、羽柴秀吉へ、去る4月2日の黒田孝高の播磨国阿閉砦に於ける戦功を賞し、援軍要請次第に派遣する旨を通達。黒田孝高は、三木城救援の毛利方を阿閉城で撃退した。02644月7日「第一次日向出兵」。大友軍、日向に入り、「社やしろヶが原はら」(現・宮崎県延岡市夏田町~稲葉崎町~無鹿町一帯)に布陣する。この前後、キリスト教による理想国建設を目指していた大友軍が縣領内の神社仏閣をことごとく焼き払った。02654月10日「第一次日向出兵―松尾城攻略」。大友軍佐伯宗天(惟これ教のり)(?~1578)ら、土つち持もち親ちか成しげの縣松尾城(現・宮崎県延岡市松山町)を攻略。親成の甥で、養子である城主・土持高信(?~1578)は、落城のとき城を出て、大友氏の本陣社やしろヶが原はらに突入しようとして果たさず、佐野町から砂町に入り、自刃したという。02664月15日「大友宗麟の第一次日向出兵(土持氏討伐戦)―3月15日~4月15日」、終結。土持親成(?~1578)は縣松尾城を脱出するも、捕縛され豊後連行の後、この日、自刃させられる。土持氏滅亡、大友勢が日向国北部を制圧。以後、11月まで佐伯宗天が「牟志賀」(現・宮崎県延岡市無鹿町)に在陣する。02674月15日毛利軍、東上を開始して播磨に侵攻する。02684月18日吉川元春「第二次上月城の戦い―4月18日~7月3日」、はじまる。毛利軍が、城番尼子勝久の播磨上月城(現・兵庫県佐用郡佐用町)を包囲。吉川元春(1530~1586)は上月城北方の太平山に、小早川隆景(1533~1597)は南方の大亀山(狼山)に布陣。東側の佐用川沿いの平地には、杉原盛重(1533~1582)ら吉川元春の武将や宇喜多勢が布陣。宇喜多直家(1529~1582)は病気と称して参陣せず、異母弟忠家(1533~1609?)が宇喜多軍総大将として参陣。毛利勢の厳重な包囲のため上月城は外部との連絡を断たれる。この時、毛利輝元(元就の孫)(1553~1625)は、備中松山城(現・岡山県高梁市内山下)に本陣を構える。0269西暦1578上月城登山道入り口(兵庫県佐用郡佐用町) 上月城戦没者合同慰霊碑山中鹿之助追頌之碑