黒田官兵衛の行動原理

黒田官兵衛の行動原理 page 9/22

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7 なると、豊富な財力によって御着城主・小寺政職の家臣に迎えられ、黒田の姓を改め、小寺美濃守職もと隆たかと名乗った。政職は、明石城主・明石正まさ風かぜの娘を養女とし、職隆に娶....

7 なると、豊富な財力によって御着城主・小寺政職の家臣に迎えられ、黒田の姓を改め、小寺美濃守職もと隆たかと名乗った。政職は、明石城主・明石正まさ風かぜの娘を養女とし、職隆に娶めとらせるとともに、職隆を姫路城の守将とした。職隆が一城を任されたところで、官兵衛はその第一子として生を受けた訳である。 黒田家の出自が由緒正しい宇多源氏とされていること、また、先祖が苦労を重ねながらも、才覚を発揮して地方の小豪族にまでのし上がってきたことは、官兵衛の心に幼少し、田畑を買い、200人を超える奉公人を抱えるまでになる。 官兵衛の父・職隆の時代に小こ寺でら職もと隆たか(1524 ~ 1585)官兵衛の父。小寺氏の家臣として当主・政職に気に入られ、最後は筆頭家老にまで登り詰めている。44 歳の若さで、22歳の官兵衛に家督を譲ったが、早めの隠居は官兵衛の人生観にも影響を与えたかもしれない。ただその後も、青山・土器山の戦いなどで官兵衛とともに戦った。黒田家御廟所樹徳寺に伝わる黒田家歴代五輪塔