黒田官兵衛の行動原理

黒田官兵衛の行動原理 page 8/22

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6ともに信者に冷珠膏を配ってもらうと、これはよく効くと評判になり、冷珠膏は大当たりしたと言われる。もともと重隆には、近江商人の資質があったのだろう、その金で金貸しをして、さらに大もうけ官兵衛、先祖を敬....

6ともに信者に冷珠膏を配ってもらうと、これはよく効くと評判になり、冷珠膏は大当たりしたと言われる。もともと重隆には、近江商人の資質があったのだろう、その金で金貸しをして、さらに大もうけ官兵衛、先祖を敬う黒田村に住みつき、その地名を姓にしたとされる。官兵衛の曾祖父・高たか政まさの時、京・舟岡山合戦での失策から近江国を追われ、流浪の末備前国邑お久く郡福岡郷に落ち着いた(のちに官兵衛が筑ちく前ぜんの領地を福岡と名付けたのは、この福岡郷にちなんでのことである)。 福岡郷は名刀の産地で、刀鍛か冶じが多く、職業柄鉄粉を浴びて目を患う者も多かった。そこに目を付けた高政は、「冷れい珠しゅ膏こう」という目薬の製造販売を始める。高政の子で、官兵衛の祖父・重しげ隆たかが、知り合いの廣ひろ峯みね神じん社じゃの神主・井いの口くち太だ夫ゆうに頼んで、神社の御札と 黒田官兵衛は、天てん文ぶん15年(1546)11月29日、播はり磨ま国御ご着ちゃく城主・小寺政まさ職もとの家臣・小寺職もと隆たかの長男として、御着城の支城である姫路城で生まれた。だから、生まれた時の姓は、黒田ではなく小寺である。幼名は万吉といった。 黒田家の出自については諸説あるが、一説によると、宇多源氏・佐々木氏の流れを汲む一族で、鎌倉末期に近お うみ江国廣峯神社