黒田官兵衛の行動原理

黒田官兵衛の行動原理 page 17/22

電子ブックを開く

このページは 黒田官兵衛の行動原理 の電子ブックに掲載されている17ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
15 毛もう利り元もと就なり(1497 ~ 1571) 安芸国吉田郡山城主・毛利弘元の二男として生まれる。幼くして母を亡くし、兄・興元が夭折すると、興元の2 歳の嫡男・幸松丸を補佐しながら一家を支えた。幸松丸の死後....

15 毛もう利り元もと就なり(1497 ~ 1571) 安芸国吉田郡山城主・毛利弘元の二男として生まれる。幼くして母を亡くし、兄・興元が夭折すると、興元の2 歳の嫡男・幸松丸を補佐しながら一家を支えた。幸松丸の死後、重臣らの推挙により当主の座に就いた。優れた戦略家で、「戦国最高の知将」の異名を取る。小こ早ばや川かわ隆たか景かげ(1533 ~ 1597) 毛利元就の三男。小早川家の養子となり、同じく吉川家の養子となった次兄の元春とともに毛利両川体制を築き、甥である毛利家の当主・輝元を支援した。強力な水軍を擁し、石山本願寺の救援に出向いた第1 次木津川口の戦いでは、織田方の九鬼水軍を破っている。織お田だ信のぶ長ながが西進してくると、両者は対立するようになった。 信長方に付いた官兵衛は、その後何度も毛利氏相手に熾し烈れつな戦いを繰り広げる。彼の武将人生の半分は、毛利勢力との戦いに明け暮れたといっても過言ではないだろう。その「両りょう川せん」と呼ばれ、毛利氏繁栄のため、隆元の嫡男で、15代当主の輝てる元もとを盛り立てた。やがて輝元は、元就の遺志に背いて中央進出を図ろうとするが(元就は、天下を目指さず領国の保全に努めよ、と言い遺している)、尾張に出たの間、官兵衛は一貫して「3本の矢」を解きほどくことに腐ふ心しんした。やがてそれは奏そう功こうし、矢の一つである小早川隆景とは信頼関係を築いて味方に引き入れ、秀吉の四国・九州征伐ではともに軍馬を並べて戦うようになるのだから、戦国の世は分からない。 後年、官兵衛が秀吉の勘かん気きに触れて剃てい髪はつした際、隆景は官兵衛にこう言って戒いましめた。「おぬしは、才気煥発ですぐさま事を決断する。それにひきかえ、それがしは鈍感で何事も決断までに時間がかかるゆえ、あまり後悔することがない」。