黒田官兵衛の行動原理

黒田官兵衛の行動原理 page 13/22

電子ブックを開く

このページは 黒田官兵衛の行動原理 の電子ブックに掲載されている13ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
11 官兵衛、妹の仇を討つ 官兵衛は24歳の時、最初の大きな戦に関わることになる。その頃、播磨の戦国大名・赤松義よし祐すけとその義弟で龍野城主の赤松政まさ秀ひでが、赤松氏本家の相続に絡んで対立。義祐に与く....

11 官兵衛、妹の仇を討つ 官兵衛は24歳の時、最初の大きな戦に関わることになる。その頃、播磨の戦国大名・赤松義よし祐すけとその義弟で龍野城主の赤松政まさ秀ひでが、赤松氏本家の相続に絡んで対立。義祐に与くみした小寺氏に政秀が矛先を向けてきたのだ。永えい禄ろく12年(1569)5月、政秀は3000の兵を率いて、小寺政まさ職もとの居城である、御着城の支城・姫路城を攻撃する。同城を守るのは官兵衛と父・職もと隆たかであった(この2年前に官兵衛は家督を継いでいる)。 ところで、官兵衛の妹の1人は、永禄7年(1564)に播磨国の武将・浦上政まさ宗むねの二男・清きよ宗むねに嫁いだが、婚礼当日に政秀に攻められ、夫、義父とともに殺害されたとの説がある。正に悲劇の花嫁であり、官兵衛にとってこの戦いは、妹の恨みを晴らす弔い合戦でもあったのだ。 さて、政秀を迎え撃つ小寺方の兵はわずか300。官兵衛は姫路城での籠城を諦め、兵を率いて城を出ると、姫路城西の青山の地に潜んだ。そして、勇敢にも政秀の大軍に奇襲攻撃を仕掛け、一旦はそれを撃退する。 しかし同年6月、政秀は再び3000の兵を率いて来襲。官兵衛らは夢ゆめ前さき川東岸の土かわらけ器山に布陣し、150の兵で対抗するが、如何せん多勢に無赤あか松まつ政まさ秀ひで(?~ 1570) 赤松氏の庶流に属し、本家の当主・赤松晴政の娘を妻とした。晴政が浦上政宗の画策により長男の赤松義祐に家督を奪われると、晴政の復権を目指し義祐と争うようになる。また、浦上政宗が小寺氏と結んだことから政宗の二男・清宗の婚礼の日に攻撃を仕掛け、政宗親子を討った。