黒田官兵衛の行動原理

黒田官兵衛の行動原理 page 12/22

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10官兵衛は再び武芸に身を投じることになるのだが、彼は円満の言葉をどう理解したのだろう。全面的に改心したというよりは、母を亡くした悲しみを払ふっ拭しょくするには、文学に心を潜ませるより、戦地に身を晒さら....

10官兵衛は再び武芸に身を投じることになるのだが、彼は円満の言葉をどう理解したのだろう。全面的に改心したというよりは、母を亡くした悲しみを払ふっ拭しょくするには、文学に心を潜ませるより、戦地に身を晒さらすほうが手っ取り早いと考えたのかもしれない。 ともあれ、この時の翻ほん心しんがあったらばこそ、のちの「名軍ぐん師し・黒田官兵衛」は誕生するのである。ただ、官兵衛の行動原理を知る上で、彼が生まれついての、単に好戦的な武人ではなく、憂いを含んだ文人の顔を併せ持っていたことを抑えておく必要はあるだろう。官兵衛はその後17歳の時、父・職隆に従って近在の土豪を討伐し、初陣を飾る。また、この頃元服し、諱いみなを孝よし高たかとした。 ところで、現在JR明石駅北側の明石公園内にある明石城は、江戸期に明石藩主となった小笠原忠ただ真ざねが築城したもので、残念ながら官兵衛の母方の出所である、明石氏の明石城は現存していない。明石城 地図頁125兵庫県明石市明石公園1・27 JR山陽本線/山陽電車「明石」駅から徒歩すぐ枝吉城址 地図頁125兵庫県神戸市西区枝吉4地下鉄西神・山手線西神中央駅/JR山陽本線「明石」駅から神姫バスで「吉田」下車、徒歩10分枝し吉きつ城(別名明石城) 室町時代から16 世紀末にかけて明石氏が居城とした枝吉城も、別称は明石城であった。天正14 年(1586)、最期の城主・明石則実が但馬豊岡に移封となったため、枝吉城は廃城となった。現在、神戸市西区の吉田郷土館裏の台地に、枝吉城の曲輪、土塁跡が残る。明石氏の居城で、明石城とも呼ばれた枝吉城の跡碑