黒田官兵衛の行動原理

黒田官兵衛の行動原理 page 11/22

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9   しかし、官兵衛が14歳の時、最愛の母親は死去。マザコン気味だった官兵衛は、大きなショックを受け、以後武芸の稽古を絶ち、和歌や学問にのめり込む文学少年に変貌していった。もっとも、彼の外祖父である明....

9   しかし、官兵衛が14歳の時、最愛の母親は死去。マザコン気味だった官兵衛は、大きなショックを受け、以後武芸の稽古を絶ち、和歌や学問にのめり込む文学少年に変貌していった。もっとも、彼の外祖父である明石正風は、五摂家の一つ、近この衛え家の歌道の師範を務めていたから、官兵衛にも元来文人の気質があったのかもしれない。日々部屋に籠もって、人が変わったように和歌づくりに没頭した。今で言う一種の引き籠もりである。官兵衛に学問を教えていた円満という僧が、そんな彼を見かね、ある時こう意見した。 「今は戦国の世。和歌よりも武芸を学ぶことが先決である。もしも敵に攻められて、それを防げなければ、元も子もない。物事には順序というものがある。よくよくお考えなされ」と。この諫かん言げんにより、マザコンだった?幼き日の官兵衛 官兵衛の母は、前述したとおり明石城主・明石正まさ風かぜの娘であった。才色兼備の上、京都の祖母の元で育てられたことから、雅みやびで都会的な雰囲気を身につけてもいたようだ。官兵衛はそんな母親の愛情をたっぷり浴びて、すくすくと(どちらかといえば腕白な部類に)成長する。明石城(明石城公園)