平清盛伝京都源平地図本

平清盛伝京都源平地図本 page 6/26

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6鹿ヶ谷の陰謀山荘跡に立つ「俊寛僧都忠誠之碑」俊寛生没年未詳陰謀発覚、関係者に厳罰山荘に集まる反平家分子たち清盛は50歳の時、体調を崩したこともあり、だいじょうじょうかい太政大臣の職を辞して出家する。法....

6鹿ヶ谷の陰謀山荘跡に立つ「俊寛僧都忠誠之碑」俊寛生没年未詳陰謀発覚、関係者に厳罰山荘に集まる反平家分子たち清盛は50歳の時、体調を崩したこともあり、だいじょうじょうかい太政大臣の職を辞して出家する。法名を浄海いんせいといった。しかし、出家後福原に隠棲してからも彼の権勢はますます強まるばかりであった。そんな清盛と平家に対し、多方面から不平不満が吹き出しはじめる。中でも後白河法皇の近臣・ふじわらのなりちか藤原成親は、悲願であった大将の職を清盛の息子たちに取られたこともあって、怒り心頭に発していた。しゅんかんさいこうたいらのやすより成親は、俊寛、西光、平康頼ら平家に反ししがたに感を持つメンバーを、鹿ヶ谷にある俊寛の山荘に集め、平家打倒を相談するようになる。時にごしらかわは後白河法皇が参加することもあり、ある日のへいし酒宴の席では、瓶子(とっくり)をうっかり倒した成親に法皇が「どうした?」と聞く。成親は「瓶子(平氏)が倒れました」と嬉しそうに答える。今度は西光が「では、平氏の首を取りましょう」と言って、瓶子の首の部分を取り上そっきょうげる―面々はこうした即興のやりとりを楽しんでいたのだが、果たしてどこまでまともな打倒計画が協議されていたかは不明のようだ。ゆきつな鹿ヶ谷での平家打倒の陰謀は、多田蔵人行綱という人物の内部告発によって露見した。行綱ずさんは、陰謀計画が余りに杜撰なのを不安に思い、おもてざた表沙汰になったら自分の身も危ないと、暮夜こっそり西八条の清盛邸に出向き、密告に及んだのだった。今や絶対権力者の清盛は、当然のごとく激怒する。事件の関係者は次々と検挙され、いずれさも厳しい処分を受けた。西光は、口を割かれた挙げ句に斬首。成親は、備前国に流されたのち、深く掘られた穴に先のとがった鉄製の武器を置き、その上に突き落とされて殺害された。成親なりつねやすよりの子・成経、平康頼、俊寛の3人は、鬼界島(鹿児島県硫黄島)に流される。成経と康頼は、高くらとくこかいにん倉天皇に嫁いでいた清盛の娘・徳子が懐妊したしゃめんことで赦免されるが、俊寛だけは許されなかっあしずりた。俊寛は、足摺をして悔しがるものの、結局は島に残され食を断って死んだ。たか12雙林寺にある平康頼の墓(P35)