平清盛伝京都源平地図本

平清盛伝京都源平地図本 page 23/26

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平清盛・平家年表11月23日「殿上の闇討」。内裏への昇殿を許された平忠盛(清盛父)、他の公卿達に妬まれ、決行されようとした殿上の闇討計画(忠盛暗殺計画)を防ぐ。代々平氏に仕える譜代の一ノ郎党・平家貞(1082....

平清盛・平家年表11月23日「殿上の闇討」。内裏への昇殿を許された平忠盛(清盛父)、他の公卿達に妬まれ、決行されようとした殿上の闇討計画(忠盛暗殺計画)を防ぐ。代々平氏に仕える譜代の一ノ郎党・平家貞(1082~1167)が、殿上の小庭に武装して控えて未然に防いだという逸話がある(「平家物語」)。いさこかやのいん1133(長承2)6月29日藤原忠実娘の勲子(くんし)(泰子)(後の高陽院)(1095~1156)、入内。長く宇治に籠居していた忠実は政界に復帰し、鳥羽院政の下、摂関家の権威回復に着手。8月?この月、平忠盛(清盛父)、院宣と詐称し、肥前国神崎荘で宋船と直接、交易をする。1134(長承3)?なりここの年、藤原得子(後の美福門院)(1117~1160)、鳥羽上皇(1103~1156)の寵愛を受けるようになる。1月5日平清盛、正五位下に叙せられる。なか4月2日平忠盛(清盛父)、中つかさの務だい大ふ輔に任じられる。4月8日内裏の関白宿所で公卿が会議。追討使は、平忠盛(清盛父)(1096~1153)・源為義(義朝の父)(1096~1156)のいずれかと。鳥羽上皇は「為義を遣わさば、路次の国々自ずから滅亡か」として強く反対した結果、西国に勢力のある忠盛に決まる。4月27日保延に改元。ほうえん1135(保延1)6月?4月に着任した追討使平忠盛(清盛父)、この月、海賊の首領を捕える。8月19日平忠盛、西国から凱旋。8月21日平清盛18歳、従四位下に叙せられる。父忠盛の西国海賊追討の恩賞の譲りという。1136(保延2)4月7日平清盛、中務少輔となる。父忠盛の譲りという。1137(保延3)1月30日従四位下中務少輔・清盛20歳、肥後守兼任。父忠盛の熊野本宮造営恩賞の譲りという。1138(保延4)?この年、平清盛(1118~1181)の長男・重盛(1138~1179)生まれる。母は右近衛将監・高階基章(生没年不詳)の娘・明子(生没年不詳)。1139(保延5)3月?この月、鳥羽上皇、平忠盛(清盛父)に興福寺僧徒の入京を防がせる。興福寺の僧と別当の争いで、平忠盛は、宇治・淀で入京を防ぐ。美福門院なり5月18日藤原得子(後の美福門院)(1117~1160)、待望の皇子、鳥羽上皇(第74代)(1103~1156)の第八皇子・躰仁(体ひと仁)親王(後の76代近衛天皇)(1139~1155)を産む。なりこなりひと8月17日鳥羽上皇(第74代)、藤原得子(後の美福門院)が産んだ生後3ヶ月の第八皇子・体仁親王(後の第76代近きよこ衛天皇)を立太子させる。直ちに、崇徳天皇と中宮・藤原聖子(後の皇嘉門院)(1122~1182)の養子とされる。しかし、宣命には「皇太弟」とあった。崇徳天皇(第75代)(1119~1164)は、院政を行う鳥羽上皇の強い意向によって異母弟・体仁親王を「皇太弟」に立てることを強要された。体仁の立太子と共に、得子は女御となり、正妃の待賢門院(藤原璋子)を凌ぐ権勢を持つようになる。?この年、平清盛(1118~1181)の次男・基盛(1139~1162)生まれる。母は右近衛将監・高階基章の娘・明子(生没年不詳)。重盛は同母兄。えのすけのつぼねひょう1140(保延6)9月2日女房兵衛佐局(生没年不詳)、崇徳天皇(第75代)の第一皇子・重しげひと仁親王(1140~1162)を産む。皇太弟(体仁親王(後の第76代近衛天皇))の生母である藤原得子(後の美福門院)、重仁親王を養子に迎える。平忠盛の妻・藤原宗子(後の池禅尼)(1104?~1164?)が乳母に選ばれる。のりきよさいぎょう10月15日佐藤義清(1118~1190)、23歳で出家。後に「西行」となる。出家直後は、京郊外の小倉山や鞍馬山に庵を結び、次に秘境の霊場として知られた奈良・吉野山に移ったという。11月14日平清盛、従四位上に叙せられる。1141(保延7)7月10日永治に改元。えい1141(永じ治この1)12月7日東宮(第76代近え衛せん天皇)3歳(1139~1155)、践そ祚する。院政開始後の鳥羽上皇(第74代)は、藤原得子(後の美福門院)を寵愛して、崇徳天皇(第75代)に譲位を迫り、得子所生の体仁親王(近衛天皇)を即位させる。得子は国母であることから皇后に立てられる。崇徳は鳥羽田中殿(三条西洞院第とも)に移り、「新院」と呼ばれる。「保元の乱の原因となる」。1142(永治2)2月26日待賢門院(藤原璋子)(1101~1145)、自ら建立した法金剛院において落飾。藤原得子(後の美福門院)(1117~1160)の地位は、磐石なものとなる。4月28日康治に改元。こうじただざね1142(康治1)5月5日鳥羽上皇(1103~1156)、藤原忠実(1078~1162)と共に、東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となる。もりひと1143(康治2)6月18日雅仁親王(後の第77代後白河天皇)(1127~1192)の第一子・守仁(後の第78代二条天皇)(1143~1165)生まつねざねありひとれる。母は藤原経実(1068~1131)の娘で、源有仁(1103~1147)の養女・懿子(いし/よしこ)。6月?この月、源為義(頼朝の祖父)(1096~1156)、内大臣藤原頼長(1120~1156)に臣属する。1144(康治3)2月23日天養に改元。てんようこう1144(天養1)7月22日後には当世無双の宏ぜい西」と称す。さい才みち博覧といわれた少納言藤原通のり憲しん(1106~1160)、時勢に対する不満で出家し、「信83