平清盛伝京都源平地図本

平清盛伝京都源平地図本 page 22/26

電子ブックを開く

このページは 平清盛伝京都源平地図本 の電子ブックに掲載されている22ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
てん1124(天じ治たま1)11月24日鳥羽上皇中宮・藤原璋??1126(天治3)1月22日大治に改元。1127(大治2)後白河天皇だい1128(大じ治こたい(しょうし)、院号を宣下されて「待子けん賢もん門いん院」と称す。つねも....

てん1124(天じ治たま1)11月24日鳥羽上皇中宮・藤原璋??1126(天治3)1月22日大治に改元。1127(大治2)後白河天皇だい1128(大じ治こたい(しょうし)、院号を宣下されて「待子けん賢もん門いん院」と称す。つねもりただもりこの年、平経盛(平清盛の異母弟)(1124~1185)、平忠盛(1096~1153)の三男として生まれる。元暦1年(1184)2月の「一ノ谷の戦い」で戦死した経正つねまさつね、経としあつ俊、敦もり盛らの父である。みちのりこの年、中宮少進(中宮・藤原璋子)の藤原通憲(後の信西)(1106~1160)、璋子の院号宣下に伴い待賢門院蔵人に補される。まさひと9月11日「後白河天皇誕生」。鳥羽上皇(1103~1156)と中宮・待賢門院(藤原璋子)(1101~1145)の第四皇子・雅仁(後の第77代後白河天皇)(1127~1192)生まれる。12月20日平忠盛(清盛父)、備前守に遷任。左馬権頭も兼任。?みちのりしんぜいじょしゃくこの年、待賢門院蔵人の藤原通憲(後の信西)、叙爵して、蔵人の任を解かれる。また、同年、信西のきいのつぼね二人目の妻である藤原朝子(紀伊局)(生年不詳~1166)が、鳥羽上皇第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母に選ばれる。きよ3)7月13日奥州藤原氏・百年の基礎を築いた藤原清?ひら衡(1056~1128)、没。享年73。金銀螺鈿をちりばめた金色堂のもとひら落慶の翌年であるとされる。子の基衡(1105?~1157?)が、兄弟との争乱に勝ち、家督を継ぎ、2代となる。のりもりこの年、平教盛(忠盛の四男、清盛の異母弟)(1128~1185)、生まれる。母は藤原家隆の娘(待賢門院に仕えた女房)。1129(大治4)1月6日清盛、12歳で、従五位下となる。平清盛待賢門院さひょうえのすけ1月24日平清盛、左兵衛佐に任ぜられる。当時では、異例の抜擢として、満座目を驚かす。武士の任官は三等官の尉から始まるのが通常で、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だった。3月?この月、平忠盛(清盛父)、院宣により、山陽・南海の海賊追捕を命じられる。ぞうしき3月16日清盛、石清水八幡臨時祭を奉仕する。清盛の雑色は華麗な装束をし、彼の馬の口取を内大臣・源有仁(あゆうしりひと)(白河天皇の猶子)(1103~1147)の随身が務める。3月?この月、平家盛(1123?~1149)、蔵人となる。家盛は、平忠盛の次男で、母は正室の宗子(後の池禅尼)(1104?~1164?)で、平清盛の異母弟。7月7日「白河院政―応徳3年(1087)~大治4年(1129)」、終わる。白河法皇(第72代天皇)(1053~1129)、三条北・烏丸西の院御所(三条烏丸西殿)で崩御。享年77。白河法皇は、第73代堀河天皇(1079~1107)崩御後は、その皇子で自らの孫である第74代鳥羽天皇(1103~1156)、更にその子の第75代崇徳天皇(1119~1164)と3代にわたって幼主を擁し43年間院政を敷いた。7月7日「鳥羽院政―大治4年(1129)~保元1年(1156)」、はじまる。鳥羽上皇(第74代)が治天を継承し、院政を敷く。上皇は、廷臣を統率、後ろ盾を持たぬ幼帝・崇徳天皇(第75代)は孤立。鳥羽は白河法皇によっただざねて関白を罷免され逼塞していた藤原忠実(1078~1162)を起用する。8月3日平忠盛(清盛父)、白河法皇四十九日の追善のために白河に建てられる九体丈六阿弥陀堂の九体仏の造立を奉仕する。9月?待賢門院(藤原璋子)、この月、仁和寺に、御堂を建立すべき地所を3ヶ所占わせ、天安寺跡とする。法金剛院(京都市右京区花園扇野町)である。11月?この月、平忠盛、賀茂臨時祭に新舞人として奉仕。その華やかさで、見物人を驚嘆させる。1130(大治5)1月7日平忠盛(清盛父)(1096~1153)、正四位下に叙せられる。鳥羽上皇(第74代)(1103~1156)の院政最初の叙位という。9月5日平忠盛(清盛父)、院御所における和歌会に歌を召される。貴族たちは批判する。1131(大治6)1月5日平清盛、従五位上となる。1月29日天承に改元。てんしょう1132(天承2)1月14日鳥羽上皇により、藤原忠実、あらためて内覧如元。子・藤原忠通(1097~1164)の関白は、有名無実となる。3月13日三十三間堂、落成供養のこの日、備前守平忠盛(清盛父)(1096~1153、待望の昇殿を許される。内裏清涼殿の殿上の間に昇ることを許され、いわゆる殿上人となる。鳥羽上皇御願の白河千体観音堂を造営した賞である。8月11日長承に改元。ちょうしょう1132(長承1)9月24日鳥羽上皇、宇治に御幸して平等院の経蔵(宝蔵)を見物。鳥羽東殿の三重塔供養する。その際、藤原忠実は他人を絶対に入れない方針を破り、上皇の第一の寵臣・播磨守藤原家成(1107~1154)を特別に経蔵の中に入れたという。長承3年(1134)、家成はこの経蔵を参考にして鳥羽殿に勝光明院と宝蔵を造営する。82