平清盛伝京都源平地図本

平清盛伝京都源平地図本 page 21/26

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平清盛・平家年表平清盛・平家年表たいらのきよもり・へいけねんぴょう清盛塚(P72)に立つ平清盛像げんえい1118(元永1)祇園女御うぶしな1月?「清盛誕生」。この月、平清盛(1118~1181)、伊勢平氏の棟梁・平忠盛....

平清盛・平家年表平清盛・平家年表たいらのきよもり・へいけねんぴょう清盛塚(P72)に立つ平清盛像げんえい1118(元永1)祇園女御うぶしな1月?「清盛誕生」。この月、平清盛(1118~1181)、伊勢平氏の棟梁・平忠盛(1096~1153)の嫡子として伊勢産品(三にょうご重県津市産品)で生まれるという。生母は祇園女御(生没年不詳)の妹という。祇園女御は、妹の子である平ゆうしらくいん清盛を猶子にしたとされる。白河法皇(第72代)(1053~1129)の落胤説も有力とされる。たまこたいけんもんいん1月26日鳥羽天皇(1103~1156)女御・藤原璋子(しょうし)(待賢門院)(祇園女御の養女)(1101~1145)、立后され中宮を号す。1119(元永2)5月6日平正盛(清盛祖父)(生年不詳~1121)、京の強盗追捕の命を受ける。待賢門院しょう5月26日平正盛、正ご五い位か下じょに昇叙。備前守如げん。元あきひとすとく5月28日「崇徳天皇誕生」。顕仁親王(後の第75代崇徳天皇)(1119~1164)生まれる。崇徳天皇は、鳥羽天皇と中宮・うと藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれるが、父には疎んぜられた。(「古事談」)には、崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。そむ12月22日平正盛(清盛祖父)、本家に背いて預所に暴行した仁和寺領肥前国藤津荘司・平直澄を院宣により討ち、直澄首を引っさげて帰洛。じゅ1120(元永3)1月6日平正盛、鎮西の賊・平真澄を討ち、功により従4月10日保安に改元。し四い位か下にょに昇叙。備前守如ほうあん1120(保安1)7月12日白河法皇に仕える清盛生母(祇園女御の妹)(生年不詳)没。祇園女御(生没年不詳)、清盛3歳を引き取り、養子として養ったという。その後、平忠盛(1096~1153)に引き取られたともいう。せんにん11月25日平忠盛(清盛父)、越前守に遷任。12月14日平正盛(清盛祖父)、讃岐守に遷任。ただ1121(保安2)3月5日藤原忠みち通げん。ただ(1097~1164)、関白宣下。忠通は、白河法皇の勅勘をこうむり関白を辞任した父忠元ざね実(1078~1162)に代わって藤原氏長者となり、25歳にして第74代鳥羽天皇(1103~1156)の関白に就任。藤原忠実はこの後、10年もの間、宇治隠居を余儀なくされる。4月8日平家興隆の基礎を築いた平正盛(清盛祖父)(生年不詳)、没とされる。日は2日など異説あり。ちょう1123(保安4)1月28日白河法皇(第72代)(1053~1129)の指示により、第74代鳥羽天皇(1103~1156)は、長子崇徳天皇(第75代)せんそ(1119~1164)に譲位する。崇徳天皇、5歳で立太子、同日、践祚する。源義朝だい2月2日鳥羽天皇、太じょう上天皇(新院)となる。その後も実権は白河法皇が握り続ける。ためよし7月18日延暦寺衆徒、日吉七社の神輿七基を奉じて入京を企てる。院を守護する平忠盛(1096~1153)、源為義(頼朝の祖父)(1096~1156)らが反撃。衆徒ら、鴨川原に神輿を打ち捨てて帰山する。忠盛は、鳥羽上皇(1103~1156)の信任を受ける。?1124(保安5)4月3日天治に改元。よしともこの年、源義朝(1123~1160)、源為義(1096~1156)の長男として生まれる。母は白河院近臣である淡路ただきよかずさぞうし守藤原忠清の娘。義朝は、坂東に育ち「上総曹司」と称された。源頼朝・源義経らの父である。し81