平清盛伝京都源平地図本

平清盛伝京都源平地図本 page 15/26

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と清盛が仕えた鳥ば羽平家を巡る女たち天皇の中宮で、崇徳天皇と後白河天皇の母である。しかし、崇徳天皇の実の父親は、白河法皇とされている。璋子は、権大納言・藤原公実の第8子で、白河法皇と祗園女御の養女とし....

と清盛が仕えた鳥ば羽平家を巡る女たち天皇の中宮で、崇徳天皇と後白河天皇の母である。しかし、崇徳天皇の実の父親は、白河法皇とされている。璋子は、権大納言・藤原公実の第8子で、白河法皇と祗園女御の養女として育てられるが、やがて、3回りも年の違う法皇の寵愛を受けるようになり、それは、鳥羽天皇に嫁いでからも続いたという。幼女の頃から抜群びぼうの美貌の持ち主で、琴の師との密通の噂もあったというから、早熟でコケティッシュな女性だったのだろう。清盛とのりきよ同い年で同じ北面の武士であった佐藤義清が、23歳の若さで出家し、西行と改名したのは、璋子への道ならぬ恋が原因であったともいわれている。ほうぎょ白河法皇が崩御すると、璋子は急速に権勢を失い、出家して自らほうこんごういんいんせい建立した法金剛院に隠棲する。しほりかし、璋子の魅力に引かれて、堀かわ河やその妹の兵衛ら優れた歌人たちが、たびたび彼女の元へ訪れるようになったといわれる。璋子の死後、実子同士である崇徳上皇と後白河天皇が保元の乱で争うことになるが、それを見ずに済んだのは、彼女にとって何よりの幸せだったのではないか。璋子が隠棲した法金剛院(P55)藤原璋子ふじわらたまこ(待賢門院)1101~1145たいけんもんいん藤原得子ふじわらなりこ(美び福ふく門もん院いん)1117~1160この鳥羽天皇の譲位後の妃で、近え衛天皇の母である。17歳の頃から鳥羽上皇の寵愛を受けるようになり、2女1男を生しのむに及んで、その権勢は正妃の璋子を凌ぐようになった。白河法皇との不倫を続けた璋子に、鳥羽上皇はやはりわだかまりを禁じ得なかったのだろうか、璋子の生んだ崇徳天皇を譲位させ、得子の生んだ近衛天皇を即位させた。しかし、近衛天皇は病弱で僅か16歳で崩御してしまう。その後継者として、崇徳上皇の皇子が候補となっていたが、結局は、崇徳の異母弟である後白河天皇が即位することとなった。その選定には崇徳の院政を嫌う得子の力が働いていたとされる。このことがきっかけとなって、崇徳上皇派と後白河天皇派の対立が激化し、保元の乱が勃発することになる。この戦いにおいて、天皇側の勝利にもっとも貢献したのは、清盛らを味方に付けた得子の働きだったともいわれる。得子は、保元の乱しんぜいのあと信西らと養子にじょうである二条天皇の即位に動き、それがまた政争を呼んで、平治の乱のきっかけを作った。いわば、「嵐を呼ぶ女」だった。得子が創建した須賀神社・交通神社(P43)37