平清盛伝京都源平地図本

平清盛伝京都源平地図本 page 14/26

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平家を巡る女たち祗園女御ぎおんにょうご生没年未詳清盛の養母である。『平家物語』では、清盛の実の父は白ただもり河法皇で、清盛を身ごもった愛人の祗園女御を忠盛に賜ったのだとしている。しかし、女御はこの時す....

平家を巡る女たち祗園女御ぎおんにょうご生没年未詳清盛の養母である。『平家物語』では、清盛の実の父は白ただもり河法皇で、清盛を身ごもった愛人の祗園女御を忠盛に賜ったのだとしている。しかし、女御はこの時すでに相当の年齢に達しており、彼女が妊娠していたとは考えにくく、忠盛が賜ったのは女御の妹だったというのが今では通説のようだ。何らかの理由で、妹の子である清盛を祗園女御が育てることになったのだろう。彼女は、これより15年ほど前にふじわらのきんざねたいけんもんいんも藤原公実の娘(のちの待賢門院)を養女としており、もともと子供に恵まれない質だったのかもしれない。祗園女御の素性については不明なことが多く、祗園の大通りで水汲みの桶を頭に乗せ、着物の裾をまくし上げたとこみそろを白河法皇に見初められ、宮中へ召し出されたという説もある。ちょうあい法皇の寵愛を一身に集め、法皇の権威をバックに贅沢な仏事を行い、朝廷の高官にも一目置かれる存在だった。清盛の類を見ないスピード出世も、法皇よりもむしろ彼女の力の影響が大きかったのかもしれない。祗園女御を祀る厳島神社(京都御所)(P26)清盛の継母である。忠盛のもとに嫁ぎ、清盛の異母弟でいえもりよりもりろくはらある家盛と頼盛を生んでいる。忠盛が死んだあと、六波羅の池殿に住んだことから、池禅尼と呼ばれるようになった。ほうげんすとく保元の乱の時、平家一族は崇徳上皇側につくか、後白河天皇側につくか、微妙な立場にあったが、池禅尼は上皇側の敗北を予想し、頼盛に天皇側につくよう指示している。先そうめいを読む力のある聡明な女性だったのだろう。へいじみなもとのよしとも平治の乱では、敗死した源義朝の子・頼朝の助命嘆願を清盛に対して行っている。なぜなら、この時13歳の頼朝が、早世した実子・家盛にうり二つだったからといわれる。家盛は長生きしていれば、清盛のライバルになったにちがいない逸材だった。その家盛に似ていたとあれば、池禅尼が涙ながらに訴えたこともうなずける。しかし、それに清源頼朝1147~1199盛がほだされ、頼朝を伊豆への流刑としたために、平家は滅亡することになるのだ。逆に頼朝は、生涯池禅尼に恩義を感じ、彼女の息子である頼盛とその一族を平家滅亡後も厚遇している。藤原宗子ふじわらのむねこ(池いけの禅ぜん尼に)1104?~1164?平氏六波羅跡碑(六波羅蜜寺内)。今の池殿町辺りが宗子の邸宅跡とされる。(P40)36