軍師官兵衛戦跡地図本

軍師官兵衛戦跡地図本 page 2/22

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2 ○黒田氏の出自 黒田官兵衛は、天文15 年(1546)11 月29 日、播磨国御ご着ちゃく城主・小寺政まさ職もとの家臣・小寺職もと隆たかの嫡男として、御着城の支城・姫路城で生まれた。従って生まれた時の姓は、黒田....

2 ○黒田氏の出自 黒田官兵衛は、天文15 年(1546)11 月29 日、播磨国御ご着ちゃく城主・小寺政まさ職もとの家臣・小寺職もと隆たかの嫡男として、御着城の支城・姫路城で生まれた。従って生まれた時の姓は、黒田ではなく小寺である。一説によると、黒田氏は宇多源氏の一派である佐々木氏の流れを汲み、鎌倉末期に近江国黒田村に住みついたことから、その地名を姓にしたとされる。 官兵衛の曾祖父・高政の時、近江の地を追われ、流浪の末、備前国福岡郷に落ち着いた。福岡郷は名刀の産地で、鍛冶屋が多く職業柄目を病む者も多かった。高政はそこに目を付け、「冷珠膏」という目薬の製造販売を始める。高政の子で官兵衛の祖父・重しげ隆たかが、廣ひろ峯みね神社の宮司に頼んで、神社の御お札ふだと一緒に冷珠膏を配ってもらうと、これはよく効くと評判になり、冷珠膏は大当たりしたと言われる。 重隆は、その金で金貸しをしてさらに大もうけし、田畑を買い、200 人もの奉公人を抱えるまでになった。官兵衛の父・職隆の時代になると、豊富な財力によって小寺政職の家臣に迎えられ、この時黒田の姓を小寺に改めたとされる。政職は、明石城主・明石正風の娘を養女とし、職隆に娶らせるとともに、職隆を姫路城の守将に命じた。こうして、官兵衛は姫路城で生を受けることになったのである。○母の死 官兵衛は、才色兼備であった母の愛情をたっぷりと浴びて、すくすくと成長する。しかし、官兵衛が14 歳の時、最愛の母は死去。官兵衛は大きなショックを受け、以後武芸の稽古を絶黒田官兵衛 (1546~1604)福岡郷跡・妙興寺にある黒田家歴代墓所(地図P69)黒田官兵衛の生涯 生き馬の目を抜く戦国時代。戦の勝敗には、参謀たる軍師の善し悪しが大きく物を言った。秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛は、手強い敵軍を相手に縦横無尽の活躍を見せ、主君を天下人に導いた。 彼の強みは、優れた戦術能力、巧みな交渉力、そして、どんな逆境にあっても決して諦めないタフな精神力にあった。人殺しを好まないその行動スタイルは、あくまでクールで格好良く、意表をつく機略を編み出しては敵の裏を掻いた。 近畿に始まって中国、四国、九州、関東、はては朝鮮半島にまで及んだ彼の戦跡を、駆け足で追いかけてみたい。