維新年表帖下巻

維新年表帖下巻 page 29/30

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49尊王攘夷、開国、佐幕派 その顛末を集めた 維新年表帖 下巻4/25【5/30】「長州藩攻撃の四ヶ国連合、成立」。英米仏蘭の公使、幕府に対して、下関通航と横浜鎖港についての共同覚書を通告する。英国公使のオール....

49尊王攘夷、開国、佐幕派 その顛末を集めた 維新年表帖 下巻4/25【5/30】「長州藩攻撃の四ヶ国連合、成立」。英米仏蘭の公使、幕府に対して、下関通航と横浜鎖港についての共同覚書を通告する。英国公使のオールコック、下関の海峡封鎖を打破のため英仏蘭米の連携を画策。32614/26【5/31】江戸幕府、京都見廻役新設を通達。幕府は京都守護職で会津藩主の松平容かた保もり(1836~1893)の配下として、備中浅尾藩主蒔まい田た 広ひろ孝たか(1849~1918)と旗本交代寄合役松平康正(1821~?)を、京都見廻役に任命。蒔田は200人の兵を率い、京都の警備を担うことになり、禁門の変で活躍する。32624/29【6/3】将軍家茂参内。4月20日の勅書に奉答。禁裏御守衛総督一橋慶喜・幕閣、朝廷尊奉18ヶ条を奉承。32635/1【6/4】三条実美、井上家(井上馨の実家)の屋敷(高田御殿)に移る。東久世通禧と四条隆謌は湯田の龍泉寺(前町御殿)に移る。三条西季知と壬生基修は、草刈屋敷(湯田御殿)に移る。32645/2【6/5】肥後脱藩浪士宮部鼎蔵(1820~1864)、総督三条実美の命により三田尻を出発。京都に潜伏し、筑前福岡藩御用達商人・古ふる高たか俊太郎(1829~1864)のところに寄宿する。現在、下京区河原町通四条上る一筋目東入ル南側に「古高俊太郎邸跡」の石碑がある。古高俊太郎は、文政12年4月6日に近江国栗太郡物部村古高(現・滋賀県守山市古高町)に生まれる。勤皇思想の持ち主であった、父古高周蔵は大津代官所へ勤めていた。俊太郎が16歳の時、父周蔵は京の毘沙門堂門跡の家士として寓居を京都堺町通丸太町下ルに定める。父周蔵は安政6年(1859)2月4日に死去し、俊太郎がその跡を継ぎ、毘沙門堂の家士として仕える傍ら、偽装のため表向き古器骨董商の店を開いた。その後俊太郎は世を晦ます意味もあって古高家を弟為次郎正裕に譲り、湯浅家の桝屋喜右衛門の養子となり桝喜を名乗り潜行して倒幕運動の活動を展開することとなった。桝屋は薪炭商として諸藩と広く商いを行い、特に筑前福岡藩(黒田)の御用達を務めていた。商売柄、侍の出入りについても特に怪しまれることも少ないことから多くの志士の拠点となっていた。3265西暦1864古高俊太郎邸跡(京都市下京区)