維新年表帖下巻

維新年表帖下巻 page 24/30

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44元治1 3/-【4/-】乃木源三(希まれ典すけ)(1849~1912)、萩に遊学を望むが、教育費が出せず父が許さなかった。源三は家出して18里の道を一日で歩き、玉木家の門前に立った。先生玉木文之進(1810~1876)は....

44元治1 3/-【4/-】乃木源三(希まれ典すけ)(1849~1912)、萩に遊学を望むが、教育費が出せず父が許さなかった。源三は家出して18里の道を一日で歩き、玉木家の門前に立った。先生玉木文之進(1810~1876)は、無断で家出した事。身体が弱いから武事を去り文事に向きたい理由に怒り、何故身体を鍛えないのかと叱りつけた。帰れと怒られ源三は夜、玉木家を出て歩いていると、背後から室辰子(1822 ?~1871)に呼び止められ玉木家に泊まる。そして文之進の許しを得て、2年間朝から暗くなるまで農作業を行い、夜は室辰子の「日本外史」などを習読した。文之進から戴いた松陰自筆の「士規七則」(安政2年1月)と、長府の父が写書した山鹿素行の「中朝事実」が送られてきた。源三の一生の愛読書になる。31863/-【4/-】藩主敬親の側近(直目付)木梨彦右衛門(椙原治はる人んど)(1821~1889)ら7人、この月、藩主毛利敬親の直書を携さえて、久保田城(現・秋田市千秋公園近辺)に入り、藩の重臣と会見。木梨彦右衛門は、藩主敬親の小姓の経験もあり、彦右衛門という名も敬親より賜っている。彦右衛門は、嘉永、安政年間より藩主の命で諸国を遊説し、文久3年(1863)八月の政変以後も、長州藩の真意を説明するため関東諸藩への使者を務めた。慶応元年(1865)に幕府が問罪使を派遣した際にも宍戸備後助(山県半蔵)と共に応接役を務める。彦右衛門の嫡子が、明治元年(1868)の戊辰戦争の際、東海道征討総督参謀となる木梨精一郎である。31873/15【4/20】長州遊撃軍に、上京見合わせの沙汰下る。31883/15【4/20】松平春嶽(前越前福井藩主)(1828~1890)、中根雪江(1807~1877)を遣わし、京都守護職辞退の意を、将軍後見職一橋慶喜(1837~1913)に伝える。31893/15【4/20】中根雪江、中川宮にも伝達。中川宮(1824~1891)は、薩摩・越後退京後の政情(水戸・因幡・備中の勢力拡大)を危惧した。31903/16【4/21】幕府、朝旨に基づき、在京諸侯に国是を諮問。31913/16【4/21】一橋慶喜の総督・指揮就任。伊達宗城・島津久光、慶喜の総督内願は「姦計」(悪いはかりごと)と嘆く。31923/17【4/22】久光・宗城、御用部屋入り辞退を慶喜に申し出る。参預の幕政参加を断わった。31933/17【4/22】将軍後見職一橋慶喜(1837~1913)に招かれた佐久間象山(1811~1864)、松代を出立。31943/18【4/23】伊達宗城、慶喜の「京摂守衛総督」就任に関する疑惑を、島津久光に伝える。31953/18【4/23】長州藩士桂小五郎(1833~1877)は、対馬藩大坂留守居役・大島友とも之の允じょう(1826~1882)の協力により、東山曙亭にて、尾張・水戸・加賀・筑前・備前・因幡・津・津和野・福山・桑名・今治・丸亀等の14藩の諸藩士、尾張藩附家老・成瀬正まさ肥みつ(1836~1903)の家士ら40数名、攘夷を議す。31963/18【4/23】長州藩主毛利慶親(敬親)、末家ら3名の大坂召命につき、藩士に、父子どちらかによる率兵・大挙上京を告げる。また、岩国領主吉川監物(経幹)に召命を断らせる。3197西暦1864