維新年表帖下巻

維新年表帖下巻 page 23/30

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43尊王攘夷、開国、佐幕派 その顛末を集めた 維新年表帖 下巻3/1【4/6】松平春嶽、幕府へ、公武合体を勧告。31683/2【4/7】朝廷参預会議は、長使入京問題等議論。結論が出ず、朝廷、各諸侯に意見書提出を命じる....

43尊王攘夷、開国、佐幕派 その顛末を集めた 維新年表帖 下巻3/1【4/6】松平春嶽、幕府へ、公武合体を勧告。31683/2【4/7】朝廷参預会議は、長使入京問題等議論。結論が出ず、朝廷、各諸侯に意見書提出を命じる。31693/3【4/8】1日藩議が一変、城代家老・毛利出雲(元もと一かず、元もと潔きよ)(長州萩藩一門吉敷領主)(1816~1889)の率兵上京は中止。この日、国司信濃が代わりに上京と決まる。憤慨する宣徳隊に脱走(脱藩)者7名が出る。その後も続々と続き大坂に集まるも、京都から下坂した長州藩政務役・久坂玄瑞らの説得で帰国する。31703/3【4/8】長州藩長崎聞役・小田村文助(のちの楫取素彦)(1829~1912)、帰国報告。31713/4【4/9】「朝廷参預会議」。長使入京可否は、万一の事態に関するの幕府の「保証」次第。31723/4【4/9】来島又兵衛(1817~1864)、遊撃軍総督を免ぜられ、家老昇格の国司信濃(1842~1864)の手元役となり、遊撃軍御用掛を命ぜられる。31733/5【4/10】六卿、矢原河原へ行き、藩主父子と歩兵騎兵砲兵の三兵隊の調練を御覧。31743/5【4/10】再脱藩の高杉晋作(1839~1867)、除隊を命じられ士籍を削られる。31753/5【4/10】長州藩処分が決定される。幕府、長使入京不可決定。朝議、長州藩末家の大坂召喚を決定。31763/7【4/12】長州藩主毛利慶親(敬親)(1819~1871)、藩士有福半右衛門( 恂じゅん允すけ)(1831~1876)に上京を命じ、将軍後見職一橋慶喜に書を寄せて、「攘夷の国是を変えず、正義の堂上を復職させ、父徳川斉昭の遺志を紹述するよう」求めた。また、家老国司信濃(親ちか相すけ)(1842~1864)・遊撃軍・膺懲隊・児玉小民部(1833~1906)らの上京を予め京都留守居に報じさせた。有福半右衛門(恂允)は、天保2年生まれ。三条実美らの七卿落ちのとき御用掛をつとめる。維新後は萩で家塾をひらく。明治9年(1876)前原一誠らの萩の乱に加わり、同年12月3日処刑された。享年46。31773/7【4/12】佐世一誠(のちの前原一誠)(1834~1876)、長州藩右筆役を解かれる。31783/7【4/12】長州藩士吉田稔麿(1841~1864)、江戸から京都に入る。31793/9【4/14】「参預解体」。一橋慶喜、参預諸侯の朝議参預辞退を願い出る。鎖港問題で対立した、朝廷参預会議の廃絶へ。31803/10【4/15】「加徳丸事件(上関事件)」。周防室津浦で、同じ長州藩義勇隊士高橋利兵衛(1840~1864)が仲間の大坂御堂前自刃を聞き切腹。31813/10【4/15】京の筑前藩世子・黒田慶よし賛すけ、長州説得に出した使者から来た手紙によれば、長州は容易に悔悟しない様子だと、前伊予宇和島藩主伊だ達て宗むね城なりに伝える。31823/11【4/16】小田村文助(のちの楫取素彦)、再び長州藩長崎聞役を拝命し、長崎に出張し形勢を探索、鉄砲購入に従事。約半年間滞在する。31833/13【4/18】松平春嶽と伊達宗城、参預を辞任。31843/14【4/19】島津久光と松平容保、参預を辞任。3185西暦1864