維新年表帖下巻

維新年表帖下巻 page 20/30

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40文久4/元治12/11【3/18】「第一次征長準備令」。幕府、藩主毛利慶親(敬親)を糾問と、長州藩討伐の準備を始める。第一次征長軍の出陣準備が西日本諸藩に命ぜられた。31242/11【3/18】松平容保の守護職を更迭....

40文久4/元治12/11【3/18】「第一次征長準備令」。幕府、藩主毛利慶親(敬親)を糾問と、長州藩討伐の準備を始める。第一次征長軍の出陣準備が西日本諸藩に命ぜられた。31242/11【3/18】松平容保の守護職を更迭し、陸軍総裁職と征長軍副将に任命。31252/13【3/20】朝廷参預会議(御前会議)。長州処分について下問(慶喜・容保・容堂欠席)。31262/14【3/21】将軍家茂参内、宸翰(1月27日)の請書を差し出す。31272/14【3/21】軍艦奉行並勝義邦(海舟)、仏国艦隊長州攻撃慰留工作のため、兵庫沖の幕府軍艦「翔鶴」に乗り込み、長崎に向かう。龍馬・千屋寅之助(菅野覚兵衛)・望月亀弥太・近藤長次郎ら門人14名随行31282/-【3/-】京都の警備を命じられた、丹波綾部藩主九鬼隆たか備とも(1834~1897)、上洛し、3月、孝明天皇に拝謁する。31292/15【3/22】長州藩主毛利利慶親(敬親)、藩庁を山口に移す許可を幕府に請う。31302/15【3/22】長州藩、城代家老・毛利出雲(元もと一かず、元もと潔きよ)(長州萩藩一門吉敷領主)(1816~1889)に、率兵上京を命じる。元潔は宣徳隊に護衛を命じた。名和道どう一いち(1838~1873)と佐畑信之(1847~1893)は、京都入りの準備のため一足早く出発した。毛利元一は、長州藩一門吉敷毛利家の13代。文化13年(1816)12代毛利房ふさ謙かねの子として生まれる。嘉永元年(1848)家督相続。藩主毛利敬親に仕え、当職、留守居役、城代等の要職を歴任。安政以降、郷校憲章館に、稽古引立役を置いて学生を監督し、優秀な者に他国での修行を命じた。また、本藩から高杉晋作、山県有朋、井上馨らが憲章館を訪れて学んだ。文久3年(1863)一門阿川毛利熙ひろ徳のり弟広ひろ悌やすの子親ちか直なお(1852~1877)を養嫡子とする。明治元年(1868)藩副執政。名和道一は、天保9年、名井弾右衛門の次男として吉敷村に生まれる。名井守介の弟。のち母方の家を継いで服部哲二郎。禁門の変参加で終身禁固の刑を受け、解かれたあと名をあらため、名和緩(縄ゆるむの意)、さらに改名して名和道一。慶応2年(1866)の四境戦争のさ中、7月2日防長士民の名で一書を作り、捕虜に託して、紀州総督の陣営に送る。この書で、松平宗秀が、宍戸備後助と小田村素太郎を解放したことを告げる。紀州総督、勝手に解放してと激怒。辞表をだし、広島に引き上げるという内紛が起きる。佐畑信之は、弘化4年吉敷村に生まれる。明治元年(1868)神戸に上り、中島信行の食客となる。鉄道権助就任の後、明治10年頃、兵庫県庁奉職。ついで実業界に入り、神戸電灯会社社長となる。明治26年死去。享年47。31312/15【3/22】幕府、1月27日の宸翰及び請書を布告。31322/15【3/22】松平春嶽(前越前福井藩主)(1828~1890)を京都守護職に任命。春嶽、参預の幕政参加による「政体一新」主張。31332/15【3/22】宸翰請書・朝廷参預会議(御前)。朝廷、請書に疑念を示し、急速な横浜鎖港を命じる。慶喜と開国説の春嶽・宗城・久光の意見対立(容保・容堂欠席)。3134西暦1864