維新年表帖下巻

維新年表帖下巻 page 18/30

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38文久4/元治11/25【3/3】幕閣、参預諸侯の長州征討案に同意。30981/25【3/3】将軍家茂、守護職と総裁職に、昨秋以来の労をねぎらい金品を与える。30991/26【3/4】高杉晋作、遊撃隊の沸騰については一朝一夕の....

38文久4/元治11/25【3/3】幕閣、参預諸侯の長州征討案に同意。30981/25【3/3】将軍家茂、守護職と総裁職に、昨秋以来の労をねぎらい金品を与える。30991/26【3/4】高杉晋作、遊撃隊の沸騰については一朝一夕のことではないので、熟慮してことにあたらねばならないと考え、この日より三田尻へ転居。31001/27【3/5】将軍家茂参内。将軍後見職慶喜扈従。家茂、在京諸侯42名の面前で、宸翰(詔書)を受取る。(軽率の攘夷及び倒幕を企てた三条実実らと長州藩の「暴臣」は必罰だがその責任は天皇にあること、攘夷のために旧典を改め、冗費を省き、幕府・諸藩の武備充実すること、公武一和によって天下一新をすること)(草稿は薩摩藩)。31011/27【3/5】長州藩政務役・久坂玄瑞(1840~1864)、この日付けで京都御内用掛の功を認められ、石高40石取りにあげられる。31021/27【3/5】夜、長州藩世子近侍の岡部繁之助(1842~1919)、藩主の御直書を持って、三田尻の高杉晋作(1839~1867)を訪ねる。諸隊の軽挙妄動を鎮撫の内命が貫徹できねば、山口に戻るようにと。31031/28【3/6】「高杉晋作、脱藩(2回目)」。何と、晋作は、在京の久坂玄瑞・桂小五郎らと来島又兵衛の進発論対策を話し合うため、同じく脱藩の山田市之允(顕孝、顕義)と共に大坂・京都に向かう。「断然京へ上り、宍戸九郎兵衛(左馬之介、真ま 澂すみ)、桂小五郎、久坂玄瑞の三士を長州へ呼び戻し、京都の状況を踏まえた上で鎮静すれば、暴発も収まるに違いない」と、岡部繁之助に告げ、この事を両殿様に言上するよう頼んだ。31041/28【3/6】松平昭徳(昭あき武たけ)(慶喜の異母弟)(1853~1910)、上洛。当初は長者町の藩邸に滞在するが、禁門の変の後は東大谷長楽寺、本圀寺に滞在する。これにより滞京中の水戸藩士は「本圀寺勢」と称される。幼いながら、滞京中の佐幕活動は多忙を極め、禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣するなど、幼年ながらも幕末の動乱に参加している。31052/1【3/8】長州藩主、遊撃隊士に、義憤を忍び時機を待つよう諭す。藩庁、亡命を禁じる。31062/1【3/8】長府藩主毛利元もと周ちか(左京亮)(1827~1868)、勝山の奥に居館(勝山城)を完成させ、四国連合艦隊の襲撃を避け、そこに移り住む。31072/1【3/8】将軍後見職一橋慶喜、会津藩賞揚及び山内容堂(前土佐藩主)抜きの参預集会に同意。31082/1【3/8】幕議は横浜鎖港攘夷、長州藩主父子の隠居・違背すれば征討、参預の御用部屋入り不可。31092/1【3/8】一橋慶喜、1月27日の宸翰は「開港の意味」が含まれるので布告延期を提案。31102/1【3/8】四条大橋東詰に会津藩・新選組批判の高札。31112/2【3/9】1月再脱藩した高杉晋作、浪速に到着。のちに長州藩士久坂玄瑞・桂小五郎・宍戸九郎兵衛(左馬之介、真ま 澂すみ)と会合。3名も進発論に反対。3112西暦1864