維新年表帖下巻

維新年表帖下巻 page 16/30

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36文久4/元治11/-【2/-】長州藩書記役書物掛・小田村文助(のちの楫取素彦)(1829~1912)、長崎聞役を拝命し、長崎に出張し異聞・異船の出入り、異人の行動などを調査。30751/3【2/10】長州藩奥番頭役・高杉....

36文久4/元治11/-【2/-】長州藩書記役書物掛・小田村文助(のちの楫取素彦)(1829~1912)、長崎聞役を拝命し、長崎に出張し異聞・異船の出入り、異人の行動などを調査。30751/3【2/10】長州藩奥番頭役・高杉晋作(1839~1867)、国司信濃(1842~1864)と共に、三田尻の招賢閣会議所へ、藩主の新年の挨拶を伝えに行く。30761/4【2/11】中山忠光(1845~1864)、豊浦郡延行村でこの日から7月1日まで隠棲する。30771/8【2/15】将軍家茂、大坂に上陸。30781/9【2/16】「参預会議」。松平容保の征長副将、松平春嶽の守護職、島津久光の幕議参画等を議定。30791/10【2/17】京都の因幡藩主池田慶よし徳のり(1837~1877)、攘夷の貫徹・三条実美らと長州藩主父子への寛典を建議。30801/11【2/18】政事総裁職松平直なお克かつ(1840~1897)と老中水野忠ただ精きよ)(1833~1884)、上洛。30811/12【2/19】長州藩、桂小五郎(のちの木戸孝允)(1833~1877)に上洛を命じる。小五郎は世子毛利定広(のちの元徳)より腰に帯びた刀を賜り、同日に山口を発って三田尻に出て海路大坂に向かう。30821/12【2/19】「加徳丸事件(上関事件)」。周防における長州義勇隊の薩摩藩船焼き討ち事件、起こる。義勇隊が、上関において、薩摩藩御用船(加徳丸)を焼き討ちし、大谷仲之進を殺害。殺害犯とされる軽輩の義勇隊士2名、山本誠一郎(1833~1864)、水井精一(1840~1864)は脱藩の上、2月26日、大坂で「大谷を梟首し、薩摩の密貿易への義憤によりやった」という斬奸状を残して自決。藩に類が及ばぬよう罪を被れと久坂玄瑞・品川弥二郎・野村靖(和作)ら尊攘急進派有力者に強要されて死んだともいう。30831/13【2/20】大名でない、島津久光(薩摩藩国父)(1817~1887)、朝議参預を命ぜられる。従四位下に叙される。30841/15【2/22】長州藩主毛利慶親(敬親)、朝幕に、赤間関(下関)通過の外国型邦船は藩に通告後に通航すること等を諸藩に布告するよう求める。30851/15【2/22】参預の容堂・宗城・久光、政令帰一を急務とし、長州処分は幕府に委任するようにとの建議をすることを合意。30861/15【2/22】将軍家茂(1846~1866)、二度目の入京、二条城へ入る。30871/-【2/-】この月、長州藩遊撃軍総督・来島又兵衛(1817~1864)、軍を率いて脱走を企てる。30881/-【2/-】長府藩士野々村勘九郎(のちの泉十郎)(1839~1866)、この月、寺社兼町奉行に就任。30891/-【2/-】豊岡藩に幽囚されること80余日、平野国臣(1828~1864)は、この月、京都へ送られ六角の獄へ投ぜられる。30901/-【2/-】大原重しげ徳とみ(1801~1879)、この月、許されて、復飾(還俗)して出仕する。3091西暦1864