維新年表帖下巻

維新年表帖下巻 page 14/30

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34文久3 12/15【1/23】桃ももの井い可か堂どう(1803~1864)、赤城山挙兵を断念し武蔵国川越藩に出頭。大楽源太郎(長州藩尊攘浪士)(1834~1871)、古松簡二(久留米藩尊攘浪士)(1835~1882)、広田精一(宇....

34文久3 12/15【1/23】桃ももの井い可か堂どう(1803~1864)、赤城山挙兵を断念し武蔵国川越藩に出頭。大楽源太郎(長州藩尊攘浪士)(1834~1871)、古松簡二(久留米藩尊攘浪士)(1835~1882)、広田精一(宇都宮藩尊攘浪士)(1840~1864)、村上四郎(後の相楽総三)(草莽尊攘志士)(1839~1868)、金輪五郎(久保田藩尊攘浪士)(1833~1870)ら参加者は解散。桃井は、この年、慷こう慨がい組ぐみを組織し、当時尊王派から忠臣として賞賛されていた新田義貞の子孫である岩松俊純(1829~1894)を擁して新田氏ゆかりの者を集め、11月12日、上野国沼田・赤城山で挙兵して後に横浜の外国人居留地を襲撃しようと企てた。しかし、同志の湯本多門之介や旗印となる岩松らが計画に恐れをなして江戸南町奉行所へ訴え出たために計画が露見した。305212/16【1/24】熊本藩士横井小しょう楠なん(1809~1869)、士籍剥奪と家禄没収の処分。(士道忘却事件の結論)。305312/16【1/24】青木周しゅう弼すけ(1803~1864)、死去。享年61。蘭方医。天保10年(1839)に長州藩に仕え、万延元年(1860)好生堂助教役などを歴任し、西洋医学発展に尽力。また同年、大村益次郎を藩へ召し抱えるよう願書を提出した。高杉晋作が10歳のとき疱瘡にかかった際、診療した医者としても知られる。周弼が培った洋学の知識は、村田清風を通じて幕末の藩政改革に生かされた。305412/16【1/24】長州藩手廻組・井原主計(親章)に帰国の朝命が出る。305512/17【1/25】長州藩は、山口の都市計画を立て、諸しょ官かん衙が や諸士の邸宅、学舎、倉庫などの区画を定めた。この新山口の都市計画に当ったのは大村益次郎(1824~1869)、中島名左衛門(1817~1863)。新館の築造もこの月、はじまる。これ以来、山口は名実ともに防長藩治の中心となり、その繁栄を誇るに至った。305612/19【1/27】長州藩手廻組・井原主かず計え(親章)(1816~1867)、五度目の入京嘆願。慶喜・宗城・春嶽、伏見に使者を派遣の上、口上聴取可と決める。右大臣二条斉なり敬ゆき、将軍後見職一橋慶喜と京都守護職松平容保に諮問、両名は、使者による聴取を回答。305712/20【1/28】奇兵隊、三田尻より馬関(赤間関)に転陣。305812/20【1/28】朝廷、歓修寺経理を藤森神社に遣わし、長州藩家老井原主計の口上を聴取することを決定。305912/21【1/29】長州藩手廻組・井原主かず計え(親章)(1816~1867)の自刃を恐れ、藩主毛利慶親(敬親)(1819~1871)、下坂して後命を待つことを命じる。306012/21【1/29】勧か 修しゅう寺じ 経つね理おさ(1825~1871)、藤森神社で井原主計の陳情を聴取。306112/22【1/30】春嶽、慶喜に、幕習から脱した「創業」を確認・二条城の諸侯集会決定。306212/23【1/31】長州奇兵隊、三田尻から馬関へ到着。306312/23【1/31】三条実美らの帰京を主張の関白鷹司輔すけ煕ひろ(1807~1878)、罷免。二条斉なり敬ゆき(1816~1878)、新関白に就く。3064西暦1864