維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 9/30

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西暦1827文政10 1/15【2/10】杉梅太郎(修道、のちの民みん治じ)(1828~1910)、萩藩士杉百合之助(常道)(25歳)(1804~1865)と瀧(23歳)(1807~1890)の長男として生まれる。幼少期から弟吉田松陰(1830....

西暦1827文政10 1/15【2/10】杉梅太郎(修道、のちの民みん治じ)(1828~1910)、萩藩士杉百合之助(常道)(25歳)(1804~1865)と瀧(23歳)(1807~1890)の長男として生まれる。幼少期から弟吉田松陰(1830~1859)と共に、父杉百合之助・叔父玉木文之進(正まさ?かぬ)(1810~1876)の指導を受ける。杉百合之助(常道)は、文化元年、長州藩士杉七兵衛の長男として生まれる。最下層の藩士であったため、農業もしながら生計を立て7人の子供を育てる。天保3年(1832)記録御次番役、翌年に呉服方に任命される。天保6年(1835)弟の吉田大助が死去したため、吉田家の家督を次男の寅之助(松陰)に相続させた。玉木文之進は、文化7年9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)(?~1824)の三男として萩で生まれる。11歳の文政3年(1820)6月、家格では杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。00051/23【2/18】西郷隆永(西郷隆盛)(通称は吉之助)(1828~1877)、鹿児島城下下加冶屋町山之口馬場の薩摩藩士・西郷九郎隆盛の家に、6人の弟妹の長男として生まれる。薩摩藩の盟友、大久保利通(1830~1878)や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)(1833~1877)と並び、「維新の三傑」と称される。維新の十傑の1人でもある。0006西暦1829文政12 3/15【4/18】松島久米次郎(のちの楫か取とり素もと彦ひこ)(1829~1912)、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に萩藩医・松島瑞ずい蟠ばん(1795 ?~1832)の次男として生まれる。通称は久米次郎または内蔵次郎。兄に松島剛蔵(1825~1865)、弟に小倉健作(松田謙三)(1832~1891)がいる。久米次郎は天保11年(1840)世々儒官である小田村家の養嗣となって伊之助と改め、後に文助・素太郎と言い、慶応3年(1867)9月、楫取素彦と改めた。諱は希ひさ哲よし、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂など。吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻の寿(1839~1881)に先立たれた後、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹の美和(文)(1843~1921)と再婚。最初の妻・寿との間に希家(小田村家を継ぐ)(1854~1932)、道明(芝山巌事件で殺害された)(1858~1896)の二男がいる。孫に小田村有つね芳か 、曾孫に小田村四郎。甲子殉難十一烈士の松島剛蔵は、文政8年3月6日に生まれる。天保2年(1831)父・瑞蟠が狂を発し廃人となったため家督を継ぐ。禄39石余り。江戸遊学し、坪井信道に4年間従学のち、長州藩世子である毛利元徳の侍医となった。のち、長崎に赴き勝海舟らと共に長崎海軍伝習所でオランダ人に航海術を3年間学び、帰藩して洋学所・軍艦教授所を創立する。軍艦教授所の門下生には高杉晋作らがいた。桂小五郎(木戸孝允)、吉田松陰とは友人であり、特に松下村塾の門下生らと提携して様々な活動を行った。三田尻に置かれた海軍局の頭取役になるなど長州藩の軍制改革に大きな役割を果たしたが、保守派(俗論派)が権力をにぎると投獄され、処刑された。0007黒船騒動・鎖国から開国、その顛末を集めた 維新年表帖 上巻33