維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 8/30

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西暦1825文政8 5/3【6/18】村田良庵(蔵六、大村益次郎)(1824~1869)、周防国吉敷郡鋳銭司村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医・村田孝益と妻うめの長男として生まれる。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵....

西暦1825文政8 5/3【6/18】村田良庵(蔵六、大村益次郎)(1824~1869)、周防国吉敷郡鋳銭司村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医・村田孝益と妻うめの長男として生まれる。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永なが敏とし。幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。天保13年(1842)防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学ぶ。維新の十傑の一人に数えられる。大村益次郎は、明治新政府兵部省における初代の大た 輔ゆう(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者という。0001- 飯田正しょう伯はく(1825~1862)、この年、50石の萩藩医の子として生まれる。弘化2年(1845)熊本の鳩はと野の 宗そう俊じゅんに師事する。安政元年(1854)相州備場付医員に任命される。安政5年(1858)に吉田松陰の松下村塾に入り、主に兵学を学んだ。師より年上の門下生となる。安政の大獄で松陰が刑死すると、桂小五郎や伊藤博文らと共に松陰の遺骸を引き取ることに尽力している。その後は長州藩の分析掛として召抱えられ、主に銃などの兵器の管理・調整を任された。ところが万延元年(1860)7月、軍用金調達を名目にして浦賀の富豪を襲って金品を強奪したため、罪人として幕府に捕縛され、獄中において、文久2年6月1日に病死した。享年38。00029/15【10/26】岩倉具とも視み(1825~1883)、公卿堀河康やす親ちかの次男として京都に生まれる。幼名は周かね丸まるであったが、容姿や言動に公家らしさがなく異彩を放っていたため、公家の子女達の間では「岩吉」と呼ばれた。朝廷儒学者・伏ふし原はら宣のぶ明はるに入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。維新の十傑の一人。0003西暦1826文政9 7/24【8/27】白井小助(1826~1902)、儒学者白井弥蔵のの長男として萩市に生まれる。26歳の頃、柳井市阿月に移住し、万延元年(1860)郷校克こっ己き 堂どうの会頭を務め、周防国阿月領主・浦うら靭ゆき負え(1795~1870)の家臣となる。嘉永6年(1853)江戸に行き、佐久間象山に砲術、斉藤新太郎に剣術、安あ 積さか艮ごん斎さいに文学を学ぶ。松陰が好んで交わった白井は、松陰より5歳年上だったが、陪臣の出で身分は低かった。しかし松陰と同じ時期に江戸に遊学しており、ともに烏山新三郎(確斎)(1819~1856)の営む塾に通っていたので、他藩の共通の友人もでき、二人の交誼は深まったという。松陰は本藩の武士であり小助は家老浦靱負の家来にしかすぎないが、松陰のことを「寅次郎」と呼び捨てにし二人は親友となった。翌年、吉田松陰の下獄に際して金品を贈るが、その金策のために売ったのは父からもらった刀であった。「刀は二本もいらない、鉄砲が一丁あれば十分」と笑ったという。0004大村益次郎安積艮斎楫取素彦32