維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 29/30

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8/6【9/10】野村和作(のちの靖)(1842~1909)、長州藩の下級武士(足軽)入江嘉伝次の二男として生まれる。名は和作、靖之助。号を欲庵、香夢庵主。兄入江九一(杉蔵)(1837~1864)が入江氏を継承したため、....

8/6【9/10】野村和作(のちの靖)(1842~1909)、長州藩の下級武士(足軽)入江嘉伝次の二男として生まれる。名は和作、靖之助。号を欲庵、香夢庵主。兄入江九一(杉蔵)(1837~1864)が入江氏を継承したため、弘化4年(1847)野村氏を継承した。吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒した。山口県萩市萩往還公園に、天野清三郎(のちの渡辺蒿蔵)(1843~1939)と並んだ銅像が立っている。01108/18【9/22】幕府、諸藩に異国船取扱方の触れを出す。01119/18【10/21】幕府、諸大名に対し軍備強化令を発令。01129/28【10/31】幕府、諸大名の物産専売を禁止する。011310/8【11/10】幕府、異国船打払い令を緩和する。011411/-【12/-】萩藩大組・石津平七、家学後見を免ぜらる。011511/24【12/25】信濃国松代藩海防顧問・佐久間象山(1811~1864)、老中の藩主真田幸ゆき貫つら(1791~1852)に「海防八策」を上申。「国防には外国船の購入と操船技術の習得が必要」。0116西暦1843天保13 12/-【1/-】福原盛吉(来くる原はら良りょう蔵ぞう)(1829~1862)は、初め福原冬嶺に学び、天保12年(1841)藩校明倫館に入った。そしてこの月、母方の伯父である大組・来原良左衛門盛郷(73石)の養子となる。0117天保14 2/-【3/-】萩藩士香川千蔵、松陰の家学後見を命ぜられる。01184/1【4/30】萩藩、萩城下東郊外の羽賀台で大操練を行う。01194/-【5/-】「長州藩における天保改革」。この月、萩藩江戸当役用談役・村田清風(1783~1855)、非公開の原則を破って、藩財政が公開され、借財の「37ヵ年賦皆済仕法」発令。家臣団の負債を借銀1貫目につき30目を37年間支払えば元利完済とするもの。村田は藩政改革を開始、雄藩への一歩をしるす。軍制改革にも努め、反対をおして羽賀台の大操練を行った。しかし、改革は頓挫する。01204/7【5/6】村田良庵(蔵六、大村益次郎)(1824~1869)、梅田幽斎の勧めで豊後国日田に向かい、この日、広瀬淡たん窓そう(1782~1856)の私塾咸かん宜ぎ園えんに入る。天保15年(1844)6月28日まで学ぶ。帰郷して同年9月13日、梅田幽斎門下に復帰する。咸宜とは「みなよろし」の意味で、身分を問わず入塾が可能であった。四書五経・数学・天文学・医学など多岐にわたる学問の講義が行われた。およそ90年間の塾生は約4800人といわれ、当時日本最大級の私塾であった。大村益次郎は村田を氏とし、家は世々医を営んだ。周防国吉敷郡鋳す 銭ぜん司じ 村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。父と共に吉敷郡秋穂村に移った。天保13年(1842)医者修行のため防府官市のシーボルトの弟子の梅田幽斎に医学と蘭学を学ぶ。0121西暦1842黒船騒動・鎖国から開国、その顛末を集めた 維新年表帖 上巻53