維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 26/30

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天保11 11/18【12/11】太上天皇となっていた第119代光格天皇(1771~1840)、崩御。宝算69。0087西暦1841天保11 12/30【1/22】国学者平田篤胤(1776~1843)、儒学を批判し尊王思想を主張した為、幕府より江戸退....

天保11 11/18【12/11】太上天皇となっていた第119代光格天皇(1771~1840)、崩御。宝算69。0087西暦1841天保11 12/30【1/22】国学者平田篤胤(1776~1843)、儒学を批判し尊王思想を主張した為、幕府より江戸退去を命ぜられる。0088天保12 1/7【1/29】松陰父母、杉百合之助(常道)(38歳)と瀧(36歳)の三女・艶子(1841~1843)が生まれる。0089閏1/7【2/27】第11代将軍・大御所の徳川家いえ斉なり(1773~1841)、死去0090閏1/24【3/16】吉田稔とし麿まろ(1841~1864)、萩藩松本村新道に軽卒といわれる十三組中間(大組中間)の吉田清内の嫡子として生まれる。名は栄太郎。文久3年(1863)23歳の時「稔麿」と改名した。久坂玄瑞、高杉晋作と共に松陰門下の三秀と称される(入江九一を入れて松門四天王ともいう)。稔麿は、松陰以前の嘉永2年(1849)久保五郎左衛門久成(1804~1861)が教えていた頃の松下村塾に通っていた。稔麿は無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれる。雅号は風ふう萍ひょう軒けん。宝蔵院流の槍術と柳生新陰流の剣術を修める。また、松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時、安政3年11月に吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究める。松陰は稔麿を評価した評を残している。稔麿の生家は松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。00913/22【5/12】国貞直人(のちの廉平)(1841~1885)、長州藩大組士(門閥士族で中土上等)六十五石二斗の国貞要助の嫡男として、萩に生まれる。藩校明倫館に入学、万延元年(1860)20歳のとき、江戸に出て桜田藩邸内の有備館に学ぶ。大橋訥庵の門にも入った。文久2年(1862)出仕して世子定広(のちの元徳)の近侍となる。慶応元年(1865)正月、鎮静会議員に加わって内乱を収拾し政府改造に力を尽くした。00925/15【7/3】「天保の改革布令」。老中首座水野忠邦(遠州浜松藩主)(1794~1851)、幕臣・在府諸大名に対し享保・寛政期への政体復古を宣言。大御所・家いえ斉なりの死去を経て、家斉旧側近を罷免し、遠山景かげ元もと、矢部定さだ謙のり、岡本正まさ成なり、鳥居耀よう蔵ぞう、渋川敬ひろ直なお、後藤三右衛門を登用して天保の改革に着手した。天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。00935/17【7/5】玉木彦助(1841~1865)、吉田松陰の叔父である家格大組士、玉木文之進(1810~1876)の長男として生まれる。諱は正弘。安政2年(1855)に元服する。従弟の松陰(1830~1859)とは仲が良く、元服のときから松下村塾で教えを受けたといわれる。江戸に出て諸藩の尊攘派と交わる。元治元年、御楯隊に入って藩内保守派と戦い、戦死する。0094- 吉田松陰12歳、馬術を萩藩手廻組・波多野源左衛門宜重に学ぶ。00957/7【8/23】太田市之進(のちの御み堀ほり耕こう助すけ)(1841~1871)、長州藩士・太田要蔵の長男として萩に生まれる。18歳で江戸の斎藤弥九郎道場に入門、塾頭を務める。帰藩後、世子毛利定広の小姓となる。元治元年(1864)の禁門の変のあと御楯隊を組織し、総督となる。0096西暦184050