維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 25/30

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6/15【7/13】和田小五郎(桂小五郎、木戸孝允)(1833~1877)、桂家の家督を継ぐ。養父が亡くなったので、末期養子だった小五郎は、規則によって家禄を150石から90石に減らされたが、7歳で桂家の当主として、長州....

6/15【7/13】和田小五郎(桂小五郎、木戸孝允)(1833~1877)、桂家の家督を継ぐ。養父が亡くなったので、末期養子だった小五郎は、規則によって家禄を150石から90石に減らされたが、7歳で桂家の当主として、長州藩の大組士という武士の身分と禄を得る事となる。翌年には養母も病死したため、小五郎は再び生家の和田家で養育されることになる。少年時代は病弱でありながら、他方で悪戯好きの悪童でもあり、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快かい哉さいを叫ぶという悪戯に熱中していた。ある時、水面から顔を出し「さあ船をひっくり返そう」と船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂かいで頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり、額から血を流しながらも、ニタニタ笑っていたという。このときの、額の三日月形の傷跡が後世まで残っている。00837/7【8/4】「長州藩天保の改革が始まる」。5月10日に続きこの日藩政府会議。村田清風(当役用談役)(1783~1885)、坪井九右衛門(当役御用筆)(1800~1863)、木原源右衛門(両人役)、中谷市左衛門(当役手元役、中谷正亮の父)(1785~1856)、長屋藤兵衛(御用所役)、仁保弥右衛門(同役)、小川善左衛門(同役)、福原与左衛門(同役)などの主要なメンバーが改革への活発な意見開陳。長州藩、村田清風の藩政改革を採用。表番頭村田清風は、藩主の下で天保の改革に取り組んだ。00848/1【8/27】岡部富太郎(1840~1895)、長州藩大組士岡部藤吾(40石)の長男として生まれる。来くる原はら良りょう蔵ぞう(1829~1862)の甥。幼い時から来原良蔵・土屋蕭海らに学び、また明倫館で文武を修める。2歳下の弟・繁之助(1842~1919)が先に松下村塾に入門しており、富太郎はその1年後の安政4年(1857)11月に吉田松陰の松下村塾に入塾する。重臣益田親ちか施のぶに言路開拓の進言をし、その采地須佐の育英館と松下村塾間に塾生交換教授の話が起こったとき、松陰の命により村塾の富永有隣、久保清太郎に率いられて須佐に赴いた。湯浅丑兵衛と友に衛撃隊を組織馬関戦争、四境戦争、戊辰戦争に出征し、維新後は山口・大阪・兵庫の各県に出仕する。008511/3【11/26】長州藩、下関の越荷方(藩が下関で運営する金融兼倉庫業)を増強。豪商の白石正一郎(1812~1880)や中野半左衛門(1804~1874)らが登用されだした。白石正一郎は、文化9年3月7日、長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(8代目)として生まれる。米、タバコ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、他に質屋を営み酒造もした。古来、下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。鈴木重胤から国学を学び、重胤の門下生を通じ西郷吉之助(隆盛)が正一郎を訪ねて親しくなり、文久元年(1861)には薩摩藩の御用達となった。文久2年の薩摩藩主の父・島津久光上京には家産を挙げて援助した。同3年(1863)4月中山忠光の下関滞在には弟廉作と共に保護に努め、久坂玄瑞・入江九一らとも交友を結び、5月の下関攘夷決行には家を挙げて砲撃戦に参加した。同年6月高杉晋作来寓して奇兵隊を編成した時、弟と共に進んで入隊し、資財を投じて援助。7月攘夷監察の勅使正おお親ぎ 町まち公きん董ただが下関砲台巡視のため来寓した時、藩主は兄弟の国事に尽くす志を賞して特に士籍に加えた。月照上人、平野国臣、真木和泉(保臣)らと親しかった経緯から尊王攘夷の志に強い影響を受けて、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助した。中野半左衛門は、長門豊浦郡に生まれた。木屋川、佐さ波ば川などを浚しゅん渫せつし船の運航を発展させ、萩藩の通船支配となる。また勧農産物江戸方御内用掛などをつとめ、薩摩との交易を一時支配した。0086西暦1840 黒船騒動・鎖国から開国、その顛末を集めた 維新年表帖 上巻49