維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 24/30

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河瀬真孝(石川小五郎)水野忠那西暦1840天保10 12/2【1/6】水野忠那(遠州浜松藩主)(1794~1851)、首席老中に就任。0074天保11 2/9【3/12】石川小五郎(のちの河瀬真孝)(1837~1861)、周防国吉敷郡佐山に....

河瀬真孝(石川小五郎)水野忠那西暦1840天保10 12/2【1/6】水野忠那(遠州浜松藩主)(1794~1851)、首席老中に就任。0074天保11 2/9【3/12】石川小五郎(のちの河瀬真孝)(1837~1861)、周防国吉敷郡佐山に、長州藩士石川淳助の三男として生まれる。三好侍医の寺子屋、萩の明倫館、阿知須ヶ浦の佐々木向陽(元の名は勝本圭甫)の塾に学ぶ。文久2年(1862)先鋒隊に入隊。文久3年(1863)7月からはじまった朝陽丸事件での幕府使節団暗殺の首魁とされる。元治元年(1864)御楯隊に入隊。禁門の変では、戦死した来島又兵衛から指揮権を引き継いで遊撃隊の指揮を執り、のちに遊撃隊総督となる。慶応元年高杉晋作による功山寺挙兵では、遊撃隊を率いて参加。第二次長州征伐では芸州口を守った。慶応3年(1867)グラバーの協力でイギリスに渡る。00754/13【5/14】和田小五郎(桂小五郎、木戸孝允)(1833~1877)、7歳で長州藩大組士(馬廻り)、桂九郎兵衛孝古(150石)の養子となる。桂小五郎と称す。00764/-【5/-】萩藩手廻組・浅野小源太尚芳、松陰の家学後見を命ぜられる。00775/-【6/-】この頃、久坂玄瑞(1840~1864)、長門国萩平ひ安や古こ本町(現・山口県萩市)八軒屋に萩藩寺社組本道医(内科医)(30石)・久坂良りょう迪てきの三男・秀三郎として生まれる(次男は玄瑞誕生時に既に死亡していた)。母は中井氏で名は富子(長門阿武郡生雲村の大庄屋・大谷中左衛門の娘)。諱は「通みち武たけ」。字は「玄瑞」、「実甫」。通称は「誠」「義助」。妻は吉田松陰の妹、文(1843~1921)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。00785/-【6/-】村田清風(1783~1885)、再度、萩藩江戸当役用談役となる。0079- 長州藩主毛利慶親(敬親)(1819~1871)、文武師範を城中に召し学芸を試験する。松陰11歳、藩主御前にてはじめて「武教全書=戦法篇、三戦の条」を講義する。藩主その巧妙なるを奇とし、文学の師を問う。松陰、「玉木文之進」と答える。玉木文之進(1810~1876)は、この年、部下が不始末を起こしたため非職となる。00806/11【7/9】日本にアヘン戦争情報が入る。00816/15【7/13】松島久米次郎(のちの楫か取とり素もと彦ひこ)12歳(1829~1912)、明倫館儒官大組の小田村吉きち平へい(1791~1847)に請われて養嗣子となる。「小田村伊之助」と称す。「大おお組ぐみ」は、萩藩の中核をなす藩士階級。008248