維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 23/30

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4/-【5/-】釈提山(のちの松本鼎かなえ)(1839~1907)、周防国佐波郡田島村(現・防府市)に生まれる。生家は農家で幼くして出家、萩の東光寺・通心寺に学び、「釈提山」と名乗る。19歳の安政4年(1857)11月、....

4/-【5/-】釈提山(のちの松本鼎かなえ)(1839~1907)、周防国佐波郡田島村(現・防府市)に生まれる。生家は農家で幼くして出家、萩の東光寺・通心寺に学び、「釈提山」と名乗る。19歳の安政4年(1857)11月、松下村塾に入り吉田松陰に学んだ。のちに還俗し長州藩士となり、禁門の変に従軍し敗戦後、御楯隊に加わった。第二次長州征伐、戊辰戦争に従軍。明治元年12月(1869)箱館府監事に就任する。00685/15【6/25】「蛮社の獄」はじまる。幕府、僧順道・順宣親子、三河国田原藩家老渡辺崋山(1793~1841)、蘭学者・町医者高野長英(17日出頭)(1804~1850)ら「尚歯会(蛮社とも呼ばれた)」の蘭学派メンバーに対して、幕政批判の容疑で弾圧を加える。00698/20【9/27】高杉晋作(1839~1867)、長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市菊屋横丁)にて、長州藩士高杉小忠太春樹(1814~1891)の長男として生まれる。諱は春はる風かぜ。通称は晋作、東一、和助。字は暢ちょう夫ふ 。上級藩士の一人息子として育った晋作は、少年期、弘化3年(1846)頃、萩城下平安古の吉松淳蔵の家塾に通い始める。藩校の明倫館で学問や剣術の修行に励んだ。安政4年(1857)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一と共に松下村塾四天王と呼ばれた。高杉小忠太は、文化11年(1814)10月13日、長州藩士・高杉春豊(200石)の次男として萩で生まれた。名は春樹。通称は別に小左衛門、丹治。高杉家は戦国時代から毛利家に仕えた名家で、誇りも高かったようで、晋作も父・小忠太には生涯、頭が上がらなかったと言う。小忠太は次男だったため、はじめ長州藩士・武藤又左衛門(大組・280石)の養子となり武藤弥四郎正方と名乗った。しかし、高杉家の兄・高杉春徽(高杉小四郎)が死去して、実家の継嗣が絶えたため、旧姓に復して高杉家の家督を継ぐ。天保5年(1834)11代藩主毛利斉元の小姓として仕えた。天保7年(1836)毛利斉広が12代藩主になると近侍となり、翌天保8年毛利慶親(敬親)が13代藩主になると小納戸役に任じられ150石となった。この年、長男高杉晋作が誕生。なお、小忠太と妻ミチには3人の娘がおり、上からタケ(武)・ハエ(栄)(坂円介室)・ミツ(光)(高杉春祺室)。タケは長州藩士武藤正明(280石)へ嫁いだ。また、高杉晋作の教育の為、江戸から書物も取り寄せていたという。嘉永4年(1851)には敬親の養子・毛利元徳の奥番頭に任じられる。00709/22【10/28】毛利元もと徳のり(広封、定広)(1839~1896)、徳山藩第8代藩主・毛利広ひろ鎮しげ(1777~1866)の十男として生まれる。長州藩の第14代(最後の)藩主。嘉永5年(1852)2月27日、先代藩主の毛利慶親(のちの敬親)に嗣子がないため、その養子となる。はじめは広ひろ封あつと名乗る。安政元年(1857)2月18日、養父・慶親の嫡子となる。同年3月9日、従四位下侍従・長門守に叙任する。また、将軍・徳川家定から偏諱(「定」の一字)を受けて定さだ広ひろと名乗った。00719/28【11/3】「アヘン戦争勃発」。英国東インド艦隊、川鼻海戦で清国船団を壊滅させる。007211/-【12/-】吉田松陰10歳(1830~1859)、初めて明倫館にて家学を教授する。藩命により高足の代理教授を止め、更に、養父吉田大助(1807~1835)の門人等であった林真人(百非)(1796~1851)、山田宇右衛門(1813~1867)、石津平七らが後見人となる。山田宇右衛門は、文化10年9月9日、増野茂左衛門の三男として周防国熊毛郡佐賀村に生まれる。文化14年(1817)10月、山田家の家督を継ぐ。松陰叔父吉田大助(1807~1835)に山鹿流兵学を学び、大助の死後は、松陰の後見人となる。正義派によるクーデター(功山寺挙兵)によって再び討幕派が藩政を握ると、慶応元年(1865)番頭格・政務座役に就任。参政首座となり、木戸孝允らと藩政刷新にあたった。0073西暦1839黒船騒動・鎖国から開国、その顛末を集めた 維新年表帖 上巻47