維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 22/30

電子ブックを開く

このページは 維新年表帖上巻 の電子ブックに掲載されている22ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
天保9 閏4/22【6/14】山県有朋(1838~1922)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現在の山口県萩市川島)に、長州藩の蔵元附中間・山県有あり稔としの長男辰之助として生まれる。前名を小助・狂介。足軽以下の中間身分な....

天保9 閏4/22【6/14】山県有朋(1838~1922)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現在の山口県萩市川島)に、長州藩の蔵元附中間・山県有あり稔としの長男辰之助として生まれる。前名を小助・狂介。足軽以下の中間身分ながら将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍術師範・岡部半蔵に宝蔵院流を習い槍の稽古に励んでいた。このころ友人・杉山松助らに松下村塾への入塾をすすめられるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる。嘉永3年(1850)13歳で蔵元付打廻手子、ついで明倫館手子役、目付横目役となる。安政5年(1858)7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの一人として、杉山松助(1838~1864)・伊藤俊輔(のちの博文)(1841~1909)らと共に上京し、尊皇攘夷派の大物であった久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜らに感化を受け9月に帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾したとされる。松蔭門下となったことは出自の低い山県が世に出る一助となったと考えられる。山県が入塾したとされる時期から数ヶ月後に松陰は獄に下ったため山県の在塾期間は極めて短かったが、彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けたという。00638/-【10/-】長州藩当役用談役の村田清風(1783~1855)、この月、新藩主毛利慶よし親ちか(敬たか親ちか)(1819~1871)に、郡奉行香川作兵衛と共に、地江戸仕組掛に任ぜられる。敬親はこの年初入国、村田清風は、「天保の藩政改革」に着手する。006410/21【12/7】蘭学者高野長英(1804~1850)、幕府の異国船打ち払い令を批判した「戊ぼ 戌じゅつ夢物語」を著す。0065西暦1839天保9 11/-【1/-】吉田松陰(1830~1859)、9歳にして初めて家学見習い(教授見習い)として藩校明倫館に登る。0066天保10 - 杉寿ひさ(1839~1881)、この頃生まれる。杉百合之助(常道)の次女、吉田松陰次妹、文の姉、楫取素彦の最初の妻である。0067西暦1838高野長英山県有朋46