維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 21/30

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西暦1838天保9 - 杉山松助(松介)(1838~1864)、長州に生まれる。諱は律のり義よし。号は寒翠・寒緑。名は松介とも。始め土屋蕭海に学び、安政5年(1858)松下村塾に入って吉田松陰に学ぶ。同年7月伊藤俊輔(博....

西暦1838天保9 - 杉山松助(松介)(1838~1864)、長州に生まれる。諱は律のり義よし。号は寒翠・寒緑。名は松介とも。始め土屋蕭海に学び、安政5年(1858)松下村塾に入って吉田松陰に学ぶ。同年7月伊藤俊輔(博文)や山県小輔(有朋)らと上京し、11月には松陰による間部詮勝天誅計画をはじめとした過激な尊皇攘夷運動に参加。文久2年(1862)には再び京都に赴き、久坂玄瑞らと共に活動を続ける。藩主より功績が認められて藩士の身分を許された。文久3年5月に国司信濃に従って久留米に赴き真木和泉の解禁に尽くし、真木らと東上して尊攘運動を展開、八月十八日の政変(堺町御門の変)後も寺島忠三郎と共に京都の長州藩邸に潜み、朝議回復の機会をうかがっていた。元治元年(1864)6月5日、池田屋事件に遭遇。負傷して深手を負いながらも長州藩邸に辿り着くも助からず、翌日死亡。享年27。明治24年(1891)従四位を贈られる。00571/1【1/26】時とき山やま直なお八はち(1838~1868)、萩城外の奥玉江にて藩士(無給通士)・時山茂作の子として生まれる。13歳の頃、同藩の槍術師範・岡部半蔵に宝蔵院流を習う。ここには、山県有朋(1838~1922)が同門でいた。安政5年(1858)家督を継ぐ。同年3月、21歳で松下村塾に入って吉田松陰に学ぶ。翌6年、江戸に行き、藤森弘こう庵あん・安井息そっ軒けん(1799~1876)に師事。文久元年(1861)藩が公武間を周旋した際は、長井雅う楽た(1819~1863)を補佐して働いた。このため一時、山県と絶交する。久坂玄瑞と国事に奔走し、文久2年、諸藩周旋掛となり、翌3年(1863)の赤間関(下関)攘夷戦、元治元年(1864)7月には、禁門の変に加わり敗走。帰国後、奇兵隊に参加し、四ヶ国連合艦隊と赤間関(下関)で奇兵隊軍監として戦う。慶応元年(1865)1月、大田・絵堂の戦い、同2年、第二次幕長戦争(小倉口)でも、奇兵隊を率いて活躍した。00581/15【2/9】松崎文平(のちの赤あか禰ね武たけ人と)(1838~1866)、周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅・母光恵の次男に生まれる。13日とも。15歳で現・大畠町の妙円寺の月性(1817~1858)の門下生となる。16歳時、月性に伴われて柳井市阿月を給領地とする浦家の家宰・秋良敦之助(貞さだ温あつ)(1811~1890)に引き合わされ、浦家克己堂(浦家の子弟教育学校)に入門、漢学を学ぶ。安政3年(1856)には短期間ではあるが吉田松陰の松下村塾に学ぶ。安政4年(1857)浦家家臣・赤禰忠右衛門雅平(1826~1892)の育はぐくみとなり、陪臣ではあるが武士の仲間入りをする。00594/11【5/4】堀真五郎(1838~1913)、萩の妙玖寺の臣(陪臣)堀文左衛門松園の子として生まれる。堀家はもと菅原姓であったが、河川開鑿に巨費を投じて功を立て、藩主より堀姓を下賜された。真五郎は、万延元年(1860)脱藩し中国諸藩を遊歴、文久元年(1861)萩に帰り松下村塾に潜伏する。翌年、久坂玄瑞らに推され薩摩へ赴き、同藩尊王攘夷派の有馬新しん七しちらと共に上京し、寺田屋騒動に遭遇。長井雅楽暗殺に失敗し囚われ、釈放後は高杉晋作に従い英国公使館焼打ちに参加する。00604/11【5/4】間まな部べ 詮あき勝かつ(越前国鯖江藩主)(1804~1884)、大坂城代から京都所司代に栄転。00614/13【5/6】中岡慎太郎(1838~1867)、父北川郷大庄屋中岡小伝次、母ウシの長男として、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県北川村柏木)で生まれる。0062黒船騒動・鎖国から開国、その顛末を集めた 維新年表帖 上巻45