維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 20/30

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天保8 6/28【7/30】「モリソン号事件」。米船モリソン号浦賀に出現、無二念打払い令(異国船打払令)により、砲撃を受ける。7月10日、モリソン号薩摩に出現、ここでも砲撃を受ける。しかし、このモリソン号にはマ....

天保8 6/28【7/30】「モリソン号事件」。米船モリソン号浦賀に出現、無二念打払い令(異国船打払令)により、砲撃を受ける。7月10日、モリソン号薩摩に出現、ここでも砲撃を受ける。しかし、このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉ら7人が乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していた事が1年後に分かり、異国船打払令に対する批判が強まった。00529/2【10/1】徳川家いえ慶よし(1793~1853)、第12代将軍となる。00539/29【10/28】七郎麿(徳川慶喜)(1837~1913)、江戸小石川水戸藩邸にて、水戸藩主・徳川斉なり昭あき(1800~1860)の7男として生まれる。005410/8【11/5】山尾庸よう三ぞう(1837~1917)、山尾忠治郎の三男として、周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)に生まれる。幼名は、「富士太郎」といった。父忠治郎は、城下町萩に住む長州藩士繁沢家の給領地(藩から与えられた土地)を管理する庄屋で、繁沢家から大きな信頼を得ていた。7歳の頃、読み書きを習うため庸三は、自宅から約3里離れた小郡(山口市)にある寺子屋に通った。10歳の時には、その才能を認められて、小郡役所の従者の役に就いた。嘉永2年(1849)父忠治郎の真面目な働きに対し、繁沢家は、感謝の気持ちとして、13歳の庸三を繁沢家の奉公として迎え入れた。この奉公が、庸三の出世のきっかけになった。安政3年(1856)父忠治郎のすすめで徳山(周南市)の長州藩士から歴史、漢詩、書を学んでいた庸三は、江戸ヘ出て学問を学びたいと考えるようになった。そして安政3年(1856)20歳の夏、江戸へ行く決心を固めた。富との海み(山口県防府市)から船で大坂へ行き、大坂からは東海道を通って江戸へ向かった。庸三は、この時、初めて長州から外へ出たのである。長州藩士繁沢石見の家来のまま、父親の援助で江戸遊学。斎藤弥九郎の練兵館に入塾。萩藩から来ていた桂小五郎の薫陶を受ける。文久3年(1863)密航でロンドン・グラスゴーに、伊藤博文・井上馨・井上勝まさる・遠藤謹助と共に留学し、長州五傑と呼ばれ、さまざまな工学を学ぶ。0055- 松陰叔父(父の末弟)の玉木文之進(28歳)(1810~1876)、のちの松下村塾生・国司仙吉(1846~1915)の叔母辰子(国司六郎右衛門の長女)(16歳)(1822 ?~1871)を娶り、杉家に同居。翌年、御蔵元順番検使役となった文之進は、杉家(樹々亭)を出、樹々亭下の新道の吉田の仮宅に住む。以後、松陰(1830~1859)は、兄・梅太郎(修道、のちの民治)(1828~1910)と共に玉木家へ毎日勉学に通う。0056西暦1837徳川家慶徳川慶喜44