維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 19/30

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4/5【5/9】入江九一(1837~1864)、長州藩足軽・入江嘉伝次、満智の長男として、萩土ひじ原わら村(現・萩市土原町)に生まれる。野村靖(1842~1909)の兄である。家貧しけれど両親は教育に熱心で、幼少から読み....

4/5【5/9】入江九一(1837~1864)、長州藩足軽・入江嘉伝次、満智の長男として、萩土ひじ原わら村(現・萩市土原町)に生まれる。野村靖(1842~1909)の兄である。家貧しけれど両親は教育に熱心で、幼少から読み書きや武術を教えられた。天保12年(1841)5歳の時、弟寅吉誕生するも夭折。翌年、次弟和作(野村靖)誕生、更に弘化4年(1847)11歳の時、妹すみ(寿美子)誕生。和作(靖)は、この弘化4年に野村家を継いだ。杉蔵(九一)は13歳で藩御蔵元の胥しょ徒と(小役人)となる。17歳で福原冬嶺の門下に入り、読書、史学を、また村上惣篤に武術を学ぶ。安政2年(1855)2月父嘉伝次が脳充血で倒れ半身不随となる。更に翌安政3年7月脳充血再発し死亡する。時に杉蔵20歳、和作15歳、すみ10歳であった。杉蔵(九一)は家長として家計を支える立場となる。安政5年(1858)松下村塾に入門して吉田松陰に学んだ。安政6年(1859)の松陰の入獄中はその志を受けて尊攘に奔走。松陰は、獄中から書簡を出して、九一に後事(松陰は京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り国民の志気を鼓舞したいと考えていた)を託したという。入江九一は、松陰から高く評価され、久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。00494/17【5/21】乾猪之助(板垣退助)(1837~1919)、高知城下中島町(現・高知市)に土佐藩士・乾正成の長男として生まれる。00504/27【5/31】「毛利敬親、藩主に就任」。第12代藩主毛利斉なり広とう(1814~1837)の養子・毛利教明(のちの敬たか親ちか)(1819~1871)は、この日家督を相続し、長州藩第13代藩主に就任。6月18日、従四位下に叙位。侍従に任官。大膳大夫を兼任し、将軍・徳川家慶の偏諱を賜り、諱を教のり明あきから「慶よし親ちか」に改める。毛利敬親は、文政2年(1819)2月10日、毛利親ちか著あきの長子で世襲家老家一門八家の一つである福原氏当主・福原房ふさ純ずみの養嗣子である福原房昌(のちの11代毛利斉なり元もと)の長子として出生。母は側室・原田氏。幼名、猶之進。のちに、教元を名乗っていた父から偏諱を与えられて教明と名乗る。天保7年(1836)9月8日に父が死去し、その後を継いで第12代藩主となった毛利斉広も江戸幕府への手続きが終わってからわずか20日足らずの天保7年12月29日に死去した。0051三条実美梨木神社(上京区寺町通広小路上ル)西暦1837黒船騒動・鎖国から開国、その顛末を集めた 維新年表帖 上巻43