維新年表帖上巻

維新年表帖上巻 page 18/30

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天保7 2/3【3/19】■甲子殉難十一烈士の一人、渡辺内くらた蔵太(1836~1865)、長州萩藩大組渡辺茂左エ門二男として萩に生まれる。一時期、長嶺此面の養子となっていたので、長嶺内蔵太の名でも知られている。弘....

天保7 2/3【3/19】■甲子殉難十一烈士の一人、渡辺内くらた蔵太(1836~1865)、長州萩藩大組渡辺茂左エ門二男として萩に生まれる。一時期、長嶺此面の養子となっていたので、長嶺内蔵太の名でも知られている。弘化元年(1844)文学を岡本権九郎に、嘉永元年(1848)ごろ剣を内藤作兵衛に学び、嘉永4年(1851)ごろ藩校明倫館へ入学。嘉永5年(1852)11月長嶺此面実晴の養子となり、安政3年(1856)剣術修行のため諸国を遊歴、安政4年(1857)江戸斉藤新太郎塾に入り、安政5年11月御手廻組小姓となる。00405/26【7/9】佐々木男お也なり(1836~1893)、長州藩遠近附士・佐々木五郎兵衛の子として、長門国萩で生まれる。長崎へ遊学。政務座見習・蔵元役などを勤め、万延元年(1860)銃陣教練助教となり、西浜操練場開場に参加。文久2年(1862)文学遊学のため上京後、文書・記録役となり手廻組に加えられ、奉勅攘夷活動をする。右筆役をへて京都で周旋役をつとめる。幕長戦争では南園隊総管となる。00416/12【7/25】「申年の大水」。萩城下の3分の2が浸水、溺死者約200人に上るなどの被害を出す。0042- 「全国で天保の大飢饉始まる」。1835年から1837年にかけて最大規模化した。00439/8【10/17】長州藩11代藩主・毛利斉なり元もと(1794~1836)、死去。享年43。0044西暦1837天保7 12/10【1/16】11代毛利斉元の養嗣子・毛利斉なり広とう(1814~1837)、12代藩主となるも、12月29日に桜田藩邸において23歳の若さで死去。0045天保8 2/7【3/13】三条実さね美とみ(1837~1891)、京都梨木町邸にて、父は右大臣三条実さね万つむ・母は土佐藩主山内豊策の娘の二男として生まれる。幼名は福麿。嘉永7年(1854)次兄の三条公きん睦むつの早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実さね万つむと同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家として、文久2年(1862)に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、同年12月、国事御用掛となった。後には長州藩と密接な関係を持ち、姉あねが小こう路じ 公きん知とも(1840~1863)と共に尊皇攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。実美は、明治政府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。後に、実万を祀る「梨木神社」(上京区寺町通広小路上ル)が創建され、実美も祀られる。00462/19【3/25】「大塩平八郎の乱」起こる。庶民救済を目指した大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある、大塩平八郎(1793~1837)の乱が起こり、鴻池、三井などの商家を焼き討ち。旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱(1637~1638)以来、200年ぶりの合戦であった。00474/2【5/6】第11代将軍徳川家いえ斉なり(1773~1841)が政務を世子・家慶(1793~1853)に委譲し、大御所として江戸城西の丸に移住する。0048西暦183642